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All Gain and No Pain
「フィデリオ、ドアを開けなさい!」
外から激しく扉を叩く音がする。鍵のかけられた扉をがたがたと揺すられた。
「明日の朝までは鍵を開けるなと言われました。言いつけは守ります」
「フィデリオ、そこに!そこにいるバルドウィンをこちらへ渡せ」
「こ、ここには僕しかいません」
「隠しても無駄だ、バルドウィンの放つ匂いが屋敷中に充ちている」
「父さん、何のことですか」
フィデリオの声はかすかに震えていた。けれども今だけは父に従ってはいけないと彼の本能が告げていた。
「バルドウィン!息子に、フィデリオに手を出すな、お前をここまで育ててやった恩を仇で返す気か」
取り乱したような父親の声はフィデリオが今まで一度たりとも聞いたことのないものだった。
「父さん?どうしたのですか?」
「フィデリオ、頼む。バルドウィンを外へ、こちらへ渡してくれ」
「バルドは父さんの寝室にいるはずですよね」
「フィデリオ、分かっているんだろう。エドガー!マスターキーを持ってこい!」
どうしようもない怒りがフィデリオの体に満ちていく。自分ではこの状況からバルドウィンを守ることが出来ない、まだ力のない子どもなのだと思い知らされていた。言い表せない負の感情。生まれて一度も感じたことのない強い想いだった。扉の鍵ががちゃりと音を立てるとほぼ同時に開いた窓からひらりと舞うようにバルドウィンが飛び出していった。
「バルド!」
「フィデリオ!」
互いに呼び合う声が重なる。バルドウィンは闇に紛れるように森へと消え、夜の静寂のみが屋敷の外には残った。
「坊ちゃま、お怪我は!?」
「フィデリオ、大丈夫か」
以前、父親に感情を込めて名前を呼ばれたのはいつのことだっただろう。恐怖の対象でしかなかったその父親の顔を改めてみる。そこに居たのは堂々としたアスベック家当主ではなく息子を心から心配する単なる初老の男だった。
「父さん、何を心配しているのですか」
「お前まで失うわけにはいかないんだ」
「お前まで?」
「私が愛したものは全てこの手の中からこぼれていく、親友のグレッグもお前の母親のリズもそうだった。だからお前の身代わりになるようにバルドウィンを引き取った。全ての厄災を受けてくれるという神話の獣人を引き取ったのだ」
フィデリオは愛されていなかったわけではなかった。父親は息子を何より愛していた。だからこそ失うわけにはいかなかった、それだけだったのだ。
「父さん、バルドは神話の生き物なんかじゃない。実際に生きているんだ。そして僕も決して消えたりはしない」
「フィデリオ……どこへ行くんだ」
「探してきます。バルドが呼んでいる、僕には分かるのです。僕が初めて誰かに必要とされているのです」
「坊ちゃま、こちらのコートをお召しください。外は寒うございます」
「エドガー、ありがとう」
何ももう怖くなかった。自分が居るべき場所、なすべきことがようやく分かったのだ。音も立てず消えたバルドウィンだったが、彼を見つけるのは容易なことだった。
「これ、香水なのかな」
匂いが強くなる方へ向う、その先に必ずバルドウィンがいる。歩みを進めるごとに空気が濃くなる、そしてその匂いにくらくらとする。
「バルド、居るのは分かっているから返事して」
「……フィデリオ。苦し、い」
「え?飛び降りたときにどこか怪我した?」
「違う単なる発情期だ。けれど今回はいつもと違う、本当に苦しい。多分、これはフィデリオの所為なのだろうね」
「どういうことなの」
「俺が欲しくない?フィデリオ、どうなんだ」
バルドウィンの呼吸数があがっていく、その吐く息からさえ甘い香りがする。背中にびりびりと電気が走る。自分には関係のないことだと、いい加減に聞いていた授業が悔やまれる。確かに発情期についても学習した。けれどもそれらは自分以外のαやΩのことだと考えていた。自らが存在を消した世界では誰とも成り立たない関係のはずだった。
「ど、どうすればいい?どうすれば助けられる?」
強い腕が体に回される。
「大丈夫、分かるよ。本能が教えてくれている。他の誰でもない。フィデリオが俺の求めている相手だと。全てを満たしてくれる相手だと」
その言葉にせき止められていた欲望が、押しつぶされていた感情が爆発した。
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