フィデリオ

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フィデリオ

 「おはようございます、父さん」  毛足の短く柔らかい赤い絨毯が敷き詰められた部屋。そこに置かれた大仰な長テーブルの上座に難しい顔をして座している男に声をかけた。機嫌が良ければ何か返答がもらえるかもしれない。しかし見事に今朝もその淡い期待は手からすべり落ちたガラスの器のように砕けて散った。父と呼ばれたその男は右眉尻を少しだけ上げ一瞥をくれただけで視線を足下のドーベルマンへとまた戻してしまった。  朝食のテーブルからゆで卵を一つ掴み赤い絨毯の上に寝そべる漆黒の獣へとそれを与えた。グルッと小さな鳴き声を立てた美しい獣は興味もないと鼻先でその卵を押しやった。息子に向けた視線とは全く違う熱で愛おしそうにその気高い生き物を見つめていた。  のそりと立ち上がった漆黒の獣はテーブルを周りフィデリオのそばへと寄ってきた。  「おはよう、バルド」  ベルベットのような滑らかなその背中を撫でるとバルドと呼ばれた獣はフィデリオの脚にそのしなやかな体を擦り付けてきた。  「バルドウィン、戻れ」  その言葉にピクリと耳を立てた獣は音も立てずに静かに父親の元へと戻っていった。  「フィデリオ、車はもう玄関に回してある」  「はい、いってまいります」  フィデリオの命はその母親の命と引き換えに与えられた。生涯たった一人愛した女性を奪った息子を父が愛するはずがなかった。生まれなければ良かったのだ。誰にも求められない存在、誰にも見えない透明な存在、それが自分なのだとフィデリオは自分に言い聞かせた。  「坊ちゃま、今日は日差しが強うございます。日よけのサングラスをお忘れにならないように」  唯一の味方は幼い頃から仕えてくれた執事のエドガーだけだ。エドガーのその言葉に鞄の中の眼鏡ケースを確認した。強い日差しは命取りだ。白い肌に白い髪、そして赤い瞳。人と違うことは物心ついた頃から知っていた。「跡取りにもなれない出来損ない」周囲から陰でそう呼ばれてきた。学校では目立たないこと、家の名を汚さぬように空気のように過ごすこと。何よりもそれを大切にしてきた。いつの間にか隠れることが上手になり、目立つ容姿でありながら誰にも声を掛けられずに日を過ごすことも多くなっていた。
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