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聖と樹
不治の病。エイズ、狂犬病。僕が生まれる前まではそれらがそう呼ばれていたらしい。いま代表的なのは感染性屍喰症。屍喰症患者――いわゆるゾンビ。ゾンビというのは今では差別用語だが。
ゾンビが世に溢れたのも僕が生まれるずっと前の話だ。人間は戦い、科学者たちはその知識と技術でゾンビに勝利した。症状を抑える薬が開発され、それは著しく肉体を損傷した患者を除いてだが、患者を健康状態に戻し、やがて世界は均衡を取り戻した。
薬を飲めば、人間を襲いたいという衝動はなくなる。ウイルスは肉を噛まれることによってだけ感染し、食事やトイレ、性的接触においては感染しない。
僕が感染したのは少し前のことだ。中学校から帰る途中、ワンカップを片手にふらふら歩いている老人に首筋を噛みつかれた。首の大きな血管に当たったらしく、笛のような音とともに大量の血が噴き出したが、不思議と痛みは感じなかった。医者によると、一種の興奮作用が働いていたらしい。通行人の助けもあって、老人は捕らえられ、僕はまだ生きている。
日常生活において、特に困ることはなかった。母さんは悲しみ憤ったが、僕に対する接し方は変わらない。差別意識は蔓延していたが、皆それを表に出すことはない。障害者を思い遣れ、というのと同じで。元から学校に友達はいなかったし、今更すこし避けられるようになったからといって別段落ち込むこともない。
なにも変わらなかった。今日までは。
「チャイム鳴ってるぞー。席もどれー」
黒に金のラインが入ったスポーツブランドのジャージの体育教師。担任の八代先生が教室に入るなり、そう言った。クラスメイトはわいわいと騒ぎながらも、それぞれの席に着く。僕は登校した時から自分の机から動いていないので、その言葉を聞き流した。
「朝礼を始める前に、大事な話がある!」
八代が嬉しそうに、よく通る声で話す。ハキハキとしているのはいつもの事だが、今日は特に調子が良さそうだ。
「上山くん。入って」
クラス全体がざわめく。転校生が来た、といったところだろうか。僕は興味がないふりをしながらも、たてつけの悪い横開きの戸が開くのに視線をやる。この学校は男女共に制服はブレザーで、少なくとも僕のクラスは真面目な生徒が多く、髪を染めている者はいない。だが、茶髪の彼は学ランを着ていた。
「今日からみんなの仲間になる、上山樹くんだ。さあ、自己紹介を」
仲間。ワンピースの読みすぎじゃないのか、この担任は。「仲間たち」は一層はしゃぎ、各々が何か話している。好きな食べ物は、とか、部活は、とか、彼女はいるのか、などだ。
「上山樹です。大阪から引っ越してきました。それで、ええと、ゾ……」
独特のイントネーション。ここ、埼玉では聞きなれないそれはテレビでよく聞く関西弁。
「上山くんの席は、後ろに用意してあるから。それから、樹って呼んでもいいかい? それか何かあだ名は?」
八代が僕の後ろの席を指す。列の一番後方の席なのに、突如背後に空席が現れていて嫌な予感がしていたが、的中したようだ。
ゾ……。なんと言いかけたのだろう。転校生、上山樹の言葉は八代のつまらない言葉に遮られた。ちなみに僕みたいなのも、担任からは「牧方くん」ではなく「聖」と呼ばれている。
「いいですけど、あの」
「みんな。仲良くやれよ! 樹はこの船に乗る仲間になったんだからな」
ワンピースの読みすぎか。
「……よろしくお願いします」
上山は何か言いたげだったが、諦めたのか普通すぎる挨拶で締めた。
「樹も席について。それとその髪、先生はかっこいいと思うが、黒に染めてこいよ。髪を染めるのはこの学校では禁止なんだ」
はあい、と、はなから聞く気がないといった様子で返事をし、リュックを下ろして彼は与えられた席へ向かう。
僕の横を通り過ぎる手前、一瞬はっきりと目があった。母親世代に流行った俳優みたいだ。濃い眉と彫りの深い顔。八代はああ言ったが、茶髪よりも黒髪のほうが似合いそうだと思った。そしてそのはっきりとした黒い両目が、例えるならば目利きするような、鋭い視線。僕の両目を捉えた後、ふと下に向かい、もう一度上がる。どきりとして、僕の方から目をそらした。
委員長の女子の号令で挨拶をし、担任の話があり、昨日道徳の授業で見た屍喰症患者のノンフィクションを基にしたドラマの感想文のプリントを集めた後、休憩時間に入る。またしても嫌な予感がしたので、机に顔を伏せて寝たふりをする。
そしてまた、予感は的中した。
「大阪のどこから来たの?」
「前の学校、ヤンキーとかいた?」
「部活はどこに入るんだ?」
クラスの中心人物たちに囲まれ、質問攻めにあう転校生。それ以外の地味な生徒も、その周りに集まったり、こちらに目を向けている。ありがちな構図だ。それでも僕の周りだけは人が寄らず、みんな上山の後ろに回っている。
「大阪の、西淀の辺や。わからんかもやけど」
「ヤンキー、ってのはおらんかったかなあ」
「部活は、入らん」
飛び交う質問を、大阪弁でさらりとかわしていく。
「聞きたいことがあったらなんでも言ってね!」
委員長がやわらかい声で笑う。
「じゃあ、ひとつ聞きたいことがあんねんけど」
唐突に、声色が陽気でハスキー気味のものから低くなった。
「なあに?」
「このクラスのゾンビ君。俺の前のこいつ――ヒラカタサトシであってるか?」
体が凍りついた。僕が感染者だと、なぜわかった。周囲が気まずい沈黙に包まれる。
「え、ええと……彼は『マキカタくん』だけど」
ばつの悪そうなどっちつかずの返答。なんだ、僕がゾンビなら一体なんだって言うんだ。
「ん……ああ! ごめん。見間違ったたみたいで。大阪にこんな漢字でヒラカタって読む地域があってな。ほら、ヒラパーってあるやろ」
「あ、ああ! 俺、行ったことあるよ。ヒラパー」
サッカー部の男子が、あからさまに話題を変えようとしているのがわかる。屍喰症患者は、そういう扱いなのだ。差別は良くないこと、というのは口実で、皆感染を恐れている。噛まれなければ平気だということも描いたドラマを見せられた後でも。そして、「差別せずに関わりたい」と、上辺だけの感想文を書かされた後でも。服薬さえしていれば、非感染者と同じ「人間」だということがわかっていても。
「で、マキ……いや、聖くん。君はゾンビなんか?」
明らかに僕に言っている。が、無視する。怖かったが、返答すれば普段は誰とも喋らない僕が急に喋ったとして、笑い者にされるか、ドン引きされるか、いい結果にはにならないだろう。どう転んでも地獄。なら相手が諦めるまで寝たふりだ。それが最善だ。
「牧方くん、いつもこうだから」
委員長も相当困っているようだ。
不意に肩を叩かれる。
「寝てんの? 俺、興味あんねんけどなあ。ゾンビに」
転校生が来た、ということを知った時のざわめきとは違う、出方を見るような無言のざわめき。顔は上げていないが、そういう空気を察した。
「樹くん。そういう言い方、よくないよ……」
ぽつりと誰かが言った。ゾンビという差別用語に対して、だろう。
「なにが?」
上山は悪びれもせずに答え、僕の頭を優しく掻くように触る。
「それに、そんなに触ったら……」
さっきと同じ女子が言った。早くやめてくれ。僕は僕で、ひとりで生きているのだから。
「あ、そゆこと」
悪戯っぽく上山が言った直後、
「うわあ!」
サッカー部の男が叫んだ。思わず顔を上げる。
「触ったくらいで感染しとったら、今頃もう一回ゾンビパニックが起きてるやろな」
右手をひらひらさせながら、へへ、と笑う姿に、さっきとは打って変わって周りは侮蔑とも恐怖とも取れる反応を向けていた。
「よろしく。ミスターゾンビ」
目の前に、指輪のはめられた手が差し出される。
「えっと」
「なんや。関東のモンは握手も知らんのか?」
ぐっと腕を引かれ、握手を強制させられた。上下に強く腕を振られる。上山の手と指は、僕よりも固く、太く、力強く、冬だというのにすこし汗ばんでいた。
その時には、僕たちの周りにできていた人集りは、もうなかった。
それからというもの、上山は授業の間、教師に何を言われようとひたすら眠り続けた。
僕も普段からそんなに真面目に授業を聞いているほうではないが、今日は特別耳に入らなかった。なぜこの転校生は、僕にここまで興味を示すのだろう。答えはもう出ていた。僕が病気、だからだ。でもなぜ、それを知っているのだろう。見た目は他の人間と変わらないはずなのに。その答えも想像がついた。八代が話したのだろう。普通なら、病気についてはプライベートなこと。守秘義務によって、誰にもわからないはずなのだ。しかし、僕が噛まれたことは一瞬だがニュースになった。埼玉県F市立中学校の生徒が屍喰症の男に噛まれ感染したと。そのとき僕は首の傷の治療や検査のため、大学病院に入院して一週間ほど学校を休んだ。
それだけで、クラスメイトにバレるのは容易なことだった。しかしそれだけではなかったのだ。退院してから初めて学校に行った日、八代が朝礼で話したのだ。
「聖は、少し病気になってしまったけれど……。今までと何も変わらない。保健や道徳の授業で習ったからわかっているだろうけど、聖はみんなと同じ、普通の人間だ。仲間なんだ!」
「普通の人間」が「普通の人間」だと、朝礼で言われることがあるだろうか。八代の考えなしの空回りな正義感には、怒りよりも先に呆れさせられた。もっとも、こんな話があろうとなかろうと、友達なんていないし、僕に関わってくる人などいないのに。
きっと八代は上山にも言ったのだろう。
「うちのクラスには屍喰症の子がいるが、みんな仲間だと思ってる。仲良くしてやってくれよ」
といった風に。
しかし、この転校生が八代の言葉を真に受けて「仲良くして」いるのだとは思えなかった。あの、クラスの奴らに対する挑発的な態度……。一体何を考えているのか、それだけは見当がつかなかった。
ぐるぐるとそんなことを考えていたせいか、いつもよりも早く時間が流れた。
僕の悩みの種が目を覚ましたのは給食の時間になってからだった。
隣の人と机をくっつけ、四人で一グループ。席順に沿った班を作って給食を食べるのがこのクラスのルールだった。気が乗らないのは毎日のことだが、僕も机の向きを動かす。ぴったりと机をくっつけた他の三人とはすこし離してだが。形だけでもそう見せておかなければ、八代にとやかく言われることになるからだ。
「うぐ、ああ……」
むくりと起き上がった上山は、大きなあくびと伸びをして、その鋭い目で周りを見回す。
「寝すぎた、みたいやな。おはよう、ゾンビくん」
寝ぼけた様子だが、はっきりと僕に向かってそう言った。僕は曖昧に笑い、彼は机のフックに吊り下げたリュックの中からスニッカーズを取り出し、包装を剥いて食べ始めた。
一度、僕たち二年生のフロアにある男子便所で飴の包装紙が見つかり、学年全員が体育館に集められ、忠告を受けたことがある。学校に不必要なものを持ち込むな、二度とこんなことがないように、と。
なにやら楽しそうにプリントの裏に落書きしていた同じ班の女子二名も、他の生徒たちも、呆気にとられているようだった。僕も例にならって、彼の姿を見る。
最後の一欠片を口に入れようとしたその時、唐突に上山はそれを僕の方に向けて言った。
「……食うか?」
その目は、なんというか、初めてのものを見るちいさな子供のように輝いていた。
「いや、その」
「なんや、『えっと』とか『その』とか。ようわからん奴やな、食えや」
ぐっ、と差し出された手に力が入ったのが見てわかった。向けられた視線が、僕がどうするのかに強い興味を示していることもわかった。
「もしかしてチョコ嫌いか? あ、そういや前の学校でも『寝起きにチョコはありえへん』ってよう言われとったっけなあ」
躊躇していると、彼は途中に大げさな、裏声での演技を挟みながら言った。
「ま、ええか。飯の時間ってことは、もう……見れるやろし」
意味深に笑い、自分で自分を納得させたようだ。残りを口に放り込み、ゴミを開けたままのリュックに放り込んだ。
「ていうか俺、もしかしてお誕生日席ってやつ?」
誰も反応を返さない。朝のアレのせいだろうか。なんだかいたたまれなくなってきた。
「う、うん。そう、かも。そうかもね」
久しぶりに学校で会話という会話をしたせいか、うまく声が出ない。
「ふーん、なるほどなあ……」
上山は満足したように、鼻と口角だけで笑った。
「あんた」
上山はさっきとは違う、貼り付けたような笑みを浮かべながら立ち上がって、落書き遊びを再開していた女子のうちのひとり、僕の真正面に座っている森本に歩み寄った。
「お誕生日席譲ったるわ。今日だけ、今だけでいいから交代してくれや」
森本は困ったように隣の桜井と顔を見合わせている。
「……勝手に席を変わったら、先生に怒られるから」
それを聞いた瞬間に、上山は言葉を返す。
「大丈夫、大丈夫。その辺は俺がうまいことやるっちゅうねん、なあ?」
ニコニコと嘘くさい笑顔を僕に向けて、右肩を軽く叩いてきた。なあ、と言われてもだ。
「ひ」
呼吸の延長のような悲鳴をあげる。
「な?」
僕に触れた手をひらつかせながら、上山は悪そうに笑っている。どの笑顔が、本来の彼なのだろうか。
「今日だけ、なら」
警戒しながら席を立った彼女と一緒に、隣の桜井も立ち上がり、そそくさと教室を出て行った。
「わかればええんや」
空いた正面の席を僕の机にぴったりとくっつけた後、椅子を引いて座った。頬杖をついて、顔を覗き込んでくる。
その黒目は僕の何を見ているのだろうか。底のない宇宙のようだと、なんとなく思った。
当番の生徒が配膳室から運んできた容器を、教卓と配膳台に並べ始める。それと共に、それぞれがこちらの様子を気にしている。妙な雰囲気の中、誰からともなくトレーを持って列に並びはじめる。
「今日の飯、なんやろなあ」
何気ない発言と相反する、湿った生ぬるい舌で舐めるような表情。
「さ、さあ。なんだろう」
当たり障りのない返事はこれでいいはずだ。上山がトレーを取りに向かったのを見て、時間をずらしてから僕もトレーを取った。
メニューは白米とわかめの味噌汁、白身魚のフライと野菜炒め、そして瓶の牛乳だった。生徒の配膳が終わった後、八代が教室に入ってきた。
「今日は樹が来て初めての給食だからな! 先生も一緒に食べることにするよ。給食当番、頼んだぞ」
自分で入れたらいいのに。
「自分で入れたらええのに」
僕の口から出たかと思ったその声は、上山のものだった。
「うっといねん、口先だけのアホが」
小声でそう言い切ってから、フライを箸で突き刺して口に運んだ。
「おいおい。先生、まだ席についてないぞ」
八代が、上山の席に座った桜井の正面にパイプ椅子を置いた。冗談っぽく笑っている担任の姿を一瞥してから、味噌汁の器を手にとって汁を啜る。
「しかも、勝手に席を変わったら駄目だろう」
「これは……」
桜井がびくりとして、弁解を始めようとする。それを遮って、器を置いた上山が口を挟んだ。僕は黙って見ていた。
「なんか、聖と仲良うなってな。俺は転校生で、周りにもあんまり馴染めてへんし。聖も、ゾン……病気ってのもあって、あんまり人と関わるの得意とちゃうみたいやから、お互い慣れるために、しばらくの間だけ許してくれはらへんかなあ。頼むわ、先生」
なにを言っているんだ。言いたいこと、聞きたいことは山積みだったが、僕はなにも言わない。
そんな僕の心情をわかっているのかいないのか、上山は両手を拝むように合わせ、わかりやすい嘘をスラスラと並べる。こんなものに騙される奴はいないはずだが、八代は違った。
「おお、そうか。それはいいことだ。ありがとう、樹」
優しい転校生に感謝し、ルール違反を広い心で許す熱血教師の自分。そういうものに酔っているように見えた。
「先生、給食です」
この日給食係だった委員長がトレーを運んでくる。八代は当然だといった様子で礼も言わずにそれを受け取り、
「よし! いただきます!」
力の入った掛け声には、ほんの数人が小さな声で反応しただけだった。
「こっちの給食も、意外とうまいんやな」
上山はかっこむように完食した後、皿をトレーごと持って配膳台に行き、すべての皿を山盛りにして帰ってきて、一瞬とも言える早さでそれを半分以下にした。食べるのが遅い僕はまだ半分も食べていない。
給食の時間なのにいつもと比べてみても明らかに静かで、箸で皿をつつく音だけが響いている。さながらテレビの特集で見たことのある刑務所の食事のようだった。刑務所なら、上山はきっと懲罰房行きだ。
箸を口に運んでから咀嚼し嚥下するまでの間、上山は目だけで僕を凝視した。
怖い。
彼は僕のことを「ゾンビ」として見ている。ゾンビの食事を観察しているのだ。
「樹、よく食うな! 先生も負けないぞお」
空気の読めない八代の声が誰にも拾われることなく空中に消える。
「聖も、もっと食わなきゃ背が伸びないぞ。あと、食べ終わったらちゃんと食器はアルコールで拭いておけよ」
「はい」
ぼそっと返事をし、やっと最後の一口にまで減った茶碗に箸を伸ばす。もう自分のものを完食した二つの真っ黒い宇宙が一瞬八代に向いていたが、すぐにこちらを捉える。
「牧方が、いや、ゾンビがほんまに食いたいのはこんな飯じゃなくて――」
箸先をくるくると回した後、上山は自身の首を指した。
「こういうのやろ?」
窓は閉まっているはずなのに、冷たい風が背中を突き抜けた。それが冷や汗だと気付く前に、八代が激昂した。
「そういう言い方ってよくないだろう」
「なにがあかんねん、ほんまの事やろ」
ひとつの動揺も見せることなく、間を空けずに上山は言葉を返す。緊迫した空気。僕のせいなのだろうか。口に入れた米が飲み込めない。気分が悪い。
「そういう言い方、ってなんやねん? 俺がゾンビって言うたことか? それともさっき自分が『ちゃんと食器はアルコールで拭いておけ』って言うたことか?」
関西弁混じりではあったが、馬鹿にするように口調を真似る。明らかな挑発。八代の眉間に皺がよる。
「いじめは良くないだろう」
ありきたりな言葉での反論。上山には微塵も聞いていないようだった。
いじめているのはどっちだ。
「いじめてるのはどっちやねん」
またしても、僕が思ったことが言葉になった。
「先生は」
八代が言いかけたところで、僕に限界が訪れた。咳き込んで口の中の米を吐き出した。せり上がってくる胃液と給食が混ざったものをギリギリのところで止めることができたのは、不幸中の幸いだった。
驚きの声、悲鳴、席を立つ音。その中には八代が奏でたものも含まれていた。
僕は俯いたまま、机の中からアルコールティッシュを取り出して、粘着剤で止められている封を開ける。そのかわりに、悲しいとか怒りとか、そういう感情に無理やり封をした。彼のように、そんなものを真っ直ぐに感じてしまえば、僕はおかしくなってしまうだろう。
ゾンビの僕に感情なんていらないんだ。薬のおかげで「感情に似た何か」を感じられているだけなのだから。
「みんな、落ち着け!」
八代がここぞとばかりに生気を取り戻し、委員長に保健室の先生を呼んでくるように、と指示を飛ばす。ほんの一口ぶんを吐き出しただけなのに、正義ヅラを振りかざすのにはぴったりか。
「へーえ。ここの仲間とやらは素直なええ子ばっかりやな。ちゃーんと担任を鑑にして、全員、上っ面だけのクソ野郎」
ただひとり冷静な上山がまた八代を煽る。しかし、張本人はそれすらも耳に入らないようだった。
「大丈夫か、聖。みんなも落ち着け」
湿ったティッシュで吐瀉物を拭き取ろうとしたその時。
「いじめ、とやらをなくすためには、まずは人の話をちゃんと聞くこと」
唾液と米が混じってぐちゃぐちゃになった飛沫を、こそげ取るように指が動く。何をしようとしているんだ。反射的に顔を上げると、僕の吐瀉物を人差し指につけた上山が、その指を黒いジャージに向けた。
悲鳴こそ上げなかったものの、八代が慄いたのはすぐにわかった。
「ふは。バーカ」
次の瞬間、上山樹は、ゾンビの唾液を含んだ米のついた指を、己の口に、入れた。
「無知なカス教師は黙っとけ、ボケ」
色黒の体育教師の担任の顔が、真っ白になっている。甲高い叫び声、汚ねえ、という怒号。僕は相変わらず、黙っていた。面倒を避けて意図的にそうしたわけではない。旋毛からつま先まで、すべてに電極を刺されたような感覚。意味不明なその行動に、圧倒され、なぜか高揚していたのだ。
「上山、後で保健室に行きなさい」
「もう樹って呼ばへんのかーい。それに……」
漫才の最後のような台詞めいた言葉。ばたばたと廊下に走る二つの足音。
「誰もおらへん保健室行ってどうするねん、な?」
いつの間にどこから出したのかはわからないが、
委員長と保健室の女性教諭。名前は確か、春野といったか。
「嘔吐した生徒はどこに?」
「ゲロ……嘔吐ってほどじゃないっす。ただちょっと、噎せたみたいで。こいつがゾ、屍喰症だからか、みんなパニックになってしもうて」
おろおろと目を泳がせる『上っ面だけのクソ野郎』よりも先に、上山は飄々と言った。
「あら、そうだったの。それなら……」
「聖と俺で片付けるんで、大丈夫ですよ」
「良かった。わかったわ、もし体調が優れないなら、いつでも来てね」
春野は僕の元に歩み寄り、背中を摩ってくれた。
なんてことをしてくれているんだ、僕に対して。上山に対して。そんな声が周囲から聞こえてきそうだった。
「春野先生。二人を後で保健室に連れて行きます、念のため」
「でも、噎せたのはこの子――」
「聖、です。牧方聖」
上山が口を挟んだ。
「牧方くんでしょう? なぜ二人ともを?」
「事情は、後で説明します」
確かに、ここで簡潔に説明するのは難しい話だった。八代のことだから、「病気」の僕を擁護し、上山に叱咤するのだろう。吐瀉物を舐めたことはともかく、反抗的すぎる態度はそれも当然ではあるが、上山が叱られるのはなんだか納得がいかなくもあり、複雑な気分だった。
「……はい。もう大丈夫? おさまった?」
少し迷ってから、彼女は八代に返事をし、僕に声をかけていた。
「大丈夫、です」
しゃがみこんで僕の顔を覗く彼女の白髪交じりの頭を見ながら、なんとか声を絞り出した。
春野が去った後、八代もいそいそと教室を出て行った。気まずい昼休みの間、上山はほとんど無言で机を片付けるのを手伝ってくれた。途中、
「あいつら、『仲間』のゲロがそんなに汚んかい」
と呆れ、ぼやいていたので、
「ゲロではないけど」
と答えた。「そういやそうやな」とだけ言って、彼は「へへ」と笑った。
その後、リュックからペットボトルに入った飲みさしのスポーツ飲料を取り出して僕に渡してくれた。口をつけていいものか戸惑ったが、あの事件を見るに平気だろうと、思い切って二口ほど拝借した。緊張で喉が渇いていたのでありがたかった。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴り、僕と上山は放送で呼び出された。
「うっといな」
机の上に足を乗せて後頭部をばりばりと掻いている彼は、もしかしたら行かないつもりなのだろうか。対して、面倒事は嫌な僕は素直に席を立った。
「あ、おい待ちぃや」
そそくさと教室内を抜けようとする僕を、上山が追ってくる。
「行かんかったら、もっとダルいことになるからな」
隣に来た彼は、しゃーなしやで、と言ってまた笑った。誰のせいでこんなことになっているかわかっているのだろうか。
予鈴がなった後の廊下は人気がなく、並んだ教室から聞こえてくる声を背に、僕たちは階段を降りた。
「……大丈夫か?」
え、と言葉が詰まった。上山が、柄にもなく真剣に、僕を心配していたからだ。
「なにが」
「いや、行ったらまたアイツにウザいこと言われるやろ」
八代のことか。確かにそうだろうが、
「行かなきゃもっと面倒だって、その、上山くん……も言ってたでしょ」
教室にいる時と比べれば上手く声が出たが、彼の名前をどう呼ぶべきか迷い、一瞬だけ詰まった。
「せやな」
唇を「に」の形にした顔を見て、すこし安心した。
「心配すんな、俺がうまいことやったる」
お前がいなければ、僕は今日も平凡に生活できたのに。その言葉は出てこなかった。
「それと、樹って呼んでや」
「うん」
「あーあ、大阪帰りたいわぁ」
保健室は一階だ。踊り場の窓から、持久走のために校庭に集まる青いジャージの後輩、一年生が集まっているのが見えた。
「あの、さ。大阪って、給食にたこ焼きとか、お好み焼きとか、出るの?」
結果的に無視してしまったような会話の終わりが気まずくて、答えはどうでもよかったが、そんなことを質問する。
「そんな話、どこで聞いてん。前の中学、弁当やったし」
出まかせの台詞だったので、返答に困る。だが、気まずい空気は薄まったので、まあいいだろう。
「じゃあ、お弁当にはたこ焼きとか、入ってた?」
「どんだけ大阪のイメージ古いねん」
友達、と呼べる関係。そんなものがあれば、毎日こういう中身の無い会話を楽しめるのだろうか。
「い、樹……は、あんまり大阪っぽくないけど」
「聖、もしかして大阪の人間はみんなヒョウ柄の服着とるとでも思っとんのか」
「まあね」
樹はよく笑う。
保健室の奥には、パイプ椅子が二つ用意してあり、八代はその正面にある回転式の灰色の椅子に座っていた。予想通り八代は僕たち、主には樹を糾弾した。なぜそんなにも反抗的な態度をとるのか。なぜ危険な真似をするのか。
しかし当の樹は相変わらずで、
「危険って何がですか?」
と、全ての質問にろくに答えようともせず、へらへらと煽った。僕も相変わらずだった。八代を、嫌な人間を前にすると上手く声が出ない。
二人が何を言い争っていたのかはよく覚えていない。なるべく聞かないようにしていたのかもしれない。
僕本人のことは、僕には関係のないこと。今の僕は僕じゃない。そんな意味不明な気持ちが、噛まれた日からずっと心の隅に存在していた。
チャイムが何度か鳴って、保健室の外が騒がしくなり始める。そんなに長い間話していたのか。八代は重い溜息を吐いた。
「もう帰ってええか?」
論争を繰り広げていた本人は、もう飽きた、といった表情でストレートに言った。
「今日はもういいが、これからもこんなことがあったら、お父さんとお母さんを呼ぶからな」
ぴく、と樹の頬が震えるのが見てとれた。両方とも全く引かないな、もうしばらく言い争いは続きそうだ。
「じゃ、行こうや」
急に立ち上がった樹の関節がぱきぱきと鳴った。
「うん」
また何か言い返すだろうと思っていたから、少し驚いたが、慌ててここに来て数個目かの短い返事をし、僕もおずおずと席を立つ。
「ちょっと待て、最後に何か言うことがあるだろう」
立ち去ろうとする僕たちを八代が呼び止める。その低い声に緊張して頭皮の裏側がビリビリと突っ張る。
「え、あ、すいませ――」
「言うこと? ああ、担任なら生徒の家庭の事情くらいちゃんと把握しとけや」
樹の濃い眉の間に深い皺が寄る。
やっぱり、まだやりあうつもりなのか。学校にいる以上、生徒が教師に勝てるわけないのに。もう一度座れ、と言われることを想像し、頭が痛くなる。
「……そうだったか。悪い」
しかし、八代は目を逸らしてそう言ったっきり何も言わなかった。
「謝るのは俺のほうやな。すいませんでした」
樹は頭が膝にくっつきそうなほどの深い礼をして、真剣に謝っていた。少なくとも僕の目にはそう見えた。
「す、すいませんでした」
勢いよく頭を上げ、颯爽と去ろうとする樹を追うように、僕も頭を下げる。
保健室を出る間際、なぜだか樹だけが呼び止められ、すぐに終わるからと僕だけが外に出された。なんとなく、貼ってある「中学保健ニュース」に目をやる。尿検査のしくみ。応急処置について。写真付きのカラーのポスターを眺めるのは、別に好きではないが嫌いでもなかった。感染性屍喰症についてもあった。症状を抑える薬はあるが、完治の方法は見つかっていない。日常生活の中で感染することはない。ポスターの文字を追う目は、そこで止まった。
樹はなぜ、僕に――いや、感染者にわざわざ接触してくるのだろう。僕が感染者でなければ、樹はあんなことをしなかっただろう。僕たちは関わることもなく、お互い普通に過ごしていけただろう。
普通ってなんだろう。
人間だった頃の僕は、普通だっただろうか。
保健室の中から八代の叫び声が聞こえ、それを皮切りに呼吸が再開された。どうやら答えの出ない自問に、息が止まるほど考え込んでいたようだ。様子を確かめようと戸に指をかけた瞬間、戸は開いた。
目と鼻の先に樹がいた。僕より少し高い位置にある端正な横顔。
「そんなに心配なら、今すぐにでも検査受けてきたらええんちゃいますか」
吐き捨てるように言って、ぴしゃりと戸を閉める。
「家どのへんなん? 一緒に帰ろうや」
「うん」
破天荒な転校生と、仲良くなった地味な生徒。
僕が人間ならば、そんな関係になれただろうか。
普通の会話。
普通の友達。
教室に戻って荷物を取り、下足室で、僕は入学した頃に買ったコンバースのスニーカーに、樹は赤いぴかぴかしたバスケットボールシューズに履き替える。
「バスケするの?」
本当に聞きたいのは、保健室で八代に何をしたのかだが、そっちはなんとなく学校を出てから聞きたかった。
「いや、カッコええから買った!」
樹はさみぃ、と独り言のように続けて、リュックからマフラーを出して首に巻く。
「あ、ヒョウ柄」
それを指して僕は言った。
「大阪っぽいやろ」
「大阪っていうか、樹は派手好きなんだね」
樹は、大きな目をさらに見開いた。
「……どうしたの」
何か悪いことでも言っただろうか。不安になって問うた。
「いや、やっと笑ったから」
意表を突かれた後、なんだか恥ずかしくなって顔を背けて校門に足を向ける。
「あ、おい! 待てって」
背後で樹が焦っているのがおかしくて、僕は前を向いたまま、もう一度笑った。
家の方向が同じだったので、学校から出て左手の急な坂を駆け上がってくる陸上部員たちを横目に下り、それから僕たちは色々な話をした。東京に初めて来たけれど、まだ東京タワーもスカイツリーも見に行けていないということ。大阪のほうが汚いけれど住みやすいということ。甘いもの全般が好きだということ。前に付き合っていた女子のこと。
一方的な樹の話に、僕は相槌を打つだけだったが、それはとても居心地が良かった。
「明日からチャリ通しよかな」
「うちの学校、自転車通学は禁止だよ」
「うえ、こんなに遠いのに」
確かに家は遠かったが、こうして他愛のない話をする時間が長くあるのはなんだか安心できた。面倒で、何を考えているのかわからない転校生が相手だとしても。しかしそんな中でも、いつ僕の病気のことを話し始めるのだろうか、ということだけが不安で仕方ない。
「なんか、普通やな」
垂れてきたマフラーを後ろに払って、空に向けるようにして呟いた。転校初日で騒ぎを起こし、担任に呼び出されておいて「普通」だとは、肝が座っているというか、まともな神経をしていないというか。
「なにが普通なの?」
樹が蹴った小石が路肩の溝に落ちるのを二人で見届ける。
「学校も、街も、そこに住んでる人も。それから――ああ、ええわ。なんでもない。そういうもん、なんにも変わらへんねんなーって」
「大阪と同じってこと?」
彼の目には、僕のことも普通に映っているのだろうか。
「うーん、まあ、そんな感じ」
は、と樹が笑うと、白い息が浮かんだ。
「あ、俺の家ここ!」
樹がそう言って見上げたのは、ちいさな公園の横のちいさな木造アパートだった。
「今はたぶん、誰もおらんけど……寄ってくか?」
しまった。世間話ばかりで、聞きたいことをひとつも聞けなかった。
「いや、今日はやめとく。母さんが心配するから」
両親が過保護なのは事実だが、会ったばかりの転校生の家に行くのは気が引けた。
「今日は、ってことは、いつか来るんやな?」
にい、と不敵に笑う樹。大人びているのに、表情や情緒は小さい子供のようだ。
「うん、いつか。じゃあね」
その場しのぎの返事をして、僕は踵を返した。
「また明日なー」
明日も樹の暴挙に付き合うことになりそうだ。胃は痛くなるが、さほど嫌ではなかったのはなぜだろうか。
「俺、八代のこと噛んでやった!」
背後から大声が聞こえて、驚いて振り返る。噛んだ? 八代を?
「あいつ、すっげえビビってた!」
黒板消しをドアの上に挟み、それが直撃した。そんなありきたりな話をするように、樹は言った。
そんなに心配なら、今すぐにでも検査受けてきたらええんちゃいますか――。あれはそういう意味だったのか。八代は樹に屍喰症の検査を勧め、それに激情した樹は八代を噛んだ。もちろん樹は感染していないのだから問題はないが、八代は慌てて病院に駆け込むだろう。
「あんまり、無茶しないでよ……」
感染の可能性を抜きにしても、教師に噛み付くという行為自体が大問題だ。
「聖も笑ってるやん」
僕も笑っていたのか。笑顔というのは、意図せずに出るものだったのか。懐かしい感覚をひとつ、取り戻したような気分だった。
「あのさ、その、僕と友達になってくれる?」
妙なことを口走った。樹と友達になれば、毎日が今日のように滅茶苦茶になるだろうか。そもそも、僕と友達になどなってくれるのだろうか。言ってから後悔した。
「友達、て。『なる』言うてなるもんなんか? それじゃ、プロポーズみたいやな」
夕日に透ける茶髪と、真っ黒い瞳がきらきらと光っていた。すっかり寒々しくなった公園の木々の緑や赤や茶色と、アパートのひび割れた壁に上塗りされただけの白いペンキが、一枚の絵のようだった。
次の日、八代はげっそりした顔で教壇に立った。感染していれば暫く入院になるはずだから、検査には行ったものの陰性だった、というところだろうか。
樹は昨日の通り、全ての授業を寝て過ごしたが、体育のサッカーでは準備体操で校庭を二周しただけで息切れしている僕と比べ、大活躍を見せていた。真冬だというのに半袖に半ズボンで、裾を引っ張って顔の汗を拭く樹の白い腹を見て、図らずしも「美味そうだ」と思ってしまったのを頭を横に振って打ち消した。
人間が美味そうに見えるとは。昨日の夜も、今日の朝も、ちゃんと薬を飲んだはずなのに。
給食の時間、樹は当然の如く僕の正面に座った。八代はもうこなかったし、僕がアルコールで食器を拭かなくても咎める者は誰もいなかった。
僕と樹が会話と呼べる会話をするのは、下校の時間と、登校時に偶然会った時だけ。教室ではうまく声が出ないから、という僕の勝手な理由のせいだった。
いつしか僕は、樹が登校する時間に合わせるようになって、彼の制服はブレザーに変わった。
樹が病気のことや転校初日のことを聞いてこなかったので、僕からもそのことを聞くのはやめにした。昨夜見たテレビの話や、面白い漫画の話をしている間だけは、普通でいられる気がしたからだ。
それでも、同じクラスの生徒がすれ違うと上手く声が出なくなった。僕の思う普通は、周りから見ても普通なのだろうか、と息が苦しくなるのだ。自分が普通だと、この環境の中で勘違いしているだけなのかもしれない、と。
学校では僕はいつもひとりで、それは樹も同じ。
ひとりとひとりが合わさっても、永遠にふたりにはなれない気がした。
買い食いなんていうのは漫画やドラマの中だけの話だと思っていた。樹がおでんのちくわぶを食べたことがない、というのでコンビニで買って食べることにしたのだ。
「その指輪、いいね」
おでんの後に肉まんを食べる樹の手を見て、ふとそう言った。
「ん、ああ……。これ、元カノに貰ってん」
僕が返答に困っていると、樹は指輪を空にかざした。
「結構、ええやつやねんで」
コンビニの蛍光灯がきらりと反射する。僕もそれを見る。
「なんか、渋いデザインだね」
「なんや、おっさん臭いっていうんか?」
むっとした顔で樹は僕の目を見た。
「ううん。似合ってる」
僕も樹の瞳を見た。宇宙よりも暗く、深海よりも深く、どこか寂しそうだった。
「お前ら、付き合ってんだろ!」
樹と一緒に教室に入るやいなや、いきなりそう言われた。クリスマスイブの、終業式の日のことだった。ヒューヒューと囃し立てる口笛、ホモじゃん、引くわ、という嘲笑。奇異の目。黒板を見ると、僕と樹の名前が書かれた大きな相合傘があった。事態が飲み込めなかった。どうしてそんなことが言えるのか、樹とはまだ、普通の友達になれているかすら、僕にもわからないのに。
「いつも一緒に登下校してるのに、学校じゃよそよそしいもんな」
うまく声が出ない。樹はどう思っているのだろう。嫌な思いをしているだろう。早くなにか言い返さなければ。
樹は無表情のまま黒板をちらりと見てから、僕の手を握って飄々と席に向かった。
「え、手繋ぐとか、公認カップルじゃん」
中心となっている、サッカー部の藤原が、周りの奴らと一緒に手を叩いて笑った。それ以外の生徒はピリピリとした空気で僕たちを見ている。
樹は音を立てて僕の椅子を引き、突き飛ばすように僕をそこに座らせ、自らは机の上に座った。
「俺が聖と付き合ってたら、なんや?」
よく通る声だった。
「は? 否定しないとか、やっぱホモじゃん。きもちわりぃ」
そう言って樹に詰め寄るが、動じない。僕はあの日、転校初日の給食の時間のように、ただ押し黙っていることしかできないのだろうか。
「うるさいねん、クソ童貞」
唇の動きだけで笑う樹の言葉に、藤原の両目はわなわなと震えた。
「お前ら、昨日の夜もヤッてんだろ」
取り巻きが後ろから煽る。
「そうやったら羨ましいか?」
「やっぱ、ヤッてんだ! そいつ、前からなよなよして女みたいだったし。つうか、お前も感染してんじゃねえの」
ガツン。鈍い音が響く。樹が顎に向かって頭突きした音だった。悲鳴と心臓の音が響く。あの日と同じだ。呼吸が詰まる。
「馬鹿かよ、セックスじゃ感染せぇへんって知らんのか?」
なんだか、僕とセックスしたかのような口ぶりだった。樹がこうなると止められない。
「てめえ!」
藤原が樹を押し倒し、その拍子にまた鈍い音が鳴る。体が思うように動かない僕は、吹き飛ぶように椅子から転落する。
頭から血を流している樹が、藤原に馬乗りになっている。
「なんやったら、今からお前のこと噛んでもええんやぞ」
ゆるくネクタイを締めている、日に焼けた首筋を樹は指でなぞっだ。
「お前ら、こいつどうにかしろよ!」
取り巻きは困惑し、震え、こちらを見ているだけだ。僕も同じだった。樹が藤原の震える顔を、何度も打つ。その度に額からぽたぽたと血が垂れる。視界が、脳が揺れる。
樹がその首に顔を近付ける。
「やめろ!」
自分の叫び声だと気付くのに、幾許かの時間がかかった。
僕は勢いに任せて樹の体を引き倒し、その隣にへたり込む。仰向けに倒れたまま動こうとしない樹の頭を撫でると、ぬるりとした生暖かい液体が傷んだ髪と絡まりあっていた。視界が霞んだ。樹の真新しいシャツに垂れた血が滲んでいる。
「やめてよ、もう、こんなことしないで」
馬鹿にされたことへの怒りだろうか。樹が傷ついたことへの悲しみだろうか。平穏な、僕なりの普通が失われてしまったことへの執着だろうか。
ち、と舌打ちをした藤原が、腹いせのように倒れたままの樹の脇腹を蹴った。
「やめろって言ってんだろ!」
思わずその足を掴む。僕の手についた樹の血が、ズボンにべたりと付着した。今までとは違う意味で、思うように体が動かなかった。
「ゾンビだからって、調子に乗ってんじゃねえぞ。上山、てめえもゾンビ相手に優しくして、いい気になるなよ」
腹の辺りを蹴りつけられた。サッカー部レギュラーの肩書きは伊達じゃなかった。蹴られた箇所から胸にかけて、熱を帯びた痛みが広がる。藤原の言った言葉は、樹に言われる「ゾンビ」とは真逆だった。事実を突きつけられることの恐怖。お前は普通ではない、人間ではない、そういうことを思い知らされる。
「聖に手ぇ出してんちゃうぞ」
起き上がろうとする樹の額を再び撫でる。どくどくと血管が動いているのが指先に伝わる。
「どうして、どうして樹は、もっと普通にできないの、なんで」
ほとんどがうまく発音できなかった。血塗れになった手で涙を拭う。雨上がりの公園の、鉄棒のような匂いに噎せ返った。
「普通って何や?」
樹が口の中の血を吐き出す。どうすることが正義なのか、どうすれば大切なものを守れるのか、何もわからなかった。
「聖がこんな目にあう世界が普通なんやったら、そんなもん、いらんわ。俺が聖のことを好きなんが、俺の中での普通や。好きな相手が傷つけられて黙ってられへんのが俺の普通や」
一息でそう言い切ってから、僕にだけ見えるようにして笑った。
嬉しかった。僕も樹のことが、たぶん好きだった。それでも、うまく笑い返すことができなかった。藤原が言ったことが引っかかっていたのだ。樹は僕がゾンビだから、僕のことを好きなのだろうか。それに、男が男を好きだというのは、藤原たちの中では異常なのだろう。
「さんきゅ」
僕の手に樹の手が重なる。指輪だけがひやりと冷たかった。前の彼女から貰ったという指輪。
僕がゾンビで、男だから、樹は僕を好きになったのだろうか。
それでも、僕が人間で、女だったなら。
朝礼が始まる前に、藤原は自分で黒板に書かれた相合傘を消していた。我に返ってから、また八代に呼び出されるのではないか、と心配したが、それは杞憂に終わった。きっと、誰も何も言わなかったのだろう。
大丈夫だと意地を張る樹を説得して保健室に行くと、春野は黙って傷口を消毒し、ガーゼを貼ってくれた。
「あんまり無茶するのは良くないわよ」
と、独り言のように言って僕たちを教室まで送ってくれた。八代には「転んで頭を打っただけや」と樹が嘘をついた。
飲酒喫煙は勧められて手を出さないように。不純異性交遊はしないように。校長の、結局なにが言いたいかわからない長い話と、生徒指導のありきたりな注意。部活動の表彰式。終業式の時間が過ぎ、いつものように樹と一緒に帰ろうとしたが気分は重かった。冬休みには、スカイツリーへ行こう、東京タワーのほうがいいかも、約束とも呼べない話を本気にしていた僕は、今日の下校時間を楽しみにしていたはずなのに。上野の博物館に行こう、と誘ってみようと思っていたのに。
周囲の目が怖かった。
「帰ろうや」
技術の授業で作ったオルゴールをはじめとする、たくさんの荷物を抱えた僕に対して、普段通り身軽な樹が言った。
藤原たちのグループはこちらを見て嘲笑っていたが、教室内に八代がいるのもあり、直接的には何もしてこなかった。それに、樹がそちらを睨みつけると、彼らは慌てて目をそらした。
「気にすんなよ」
樹が手を握ってきたので、僕も握り返した。あの日の握手と同じく、汗ばんでいたが、気持ち悪いとは思わなかった。暖かい。
手を繋いだまま、坂を下る。陸上部は終業式なのにもかかわらず、坂を駆け上がっている。その途中、校門の前に立って生徒を見送っている生徒会と教師がちらちらと僕らを見ているようで嫌だったが、その度に僕の手を握る樹の手に力が入るので、平気だった。すこしだけ強くなったような気がしていた。
繋いでいない方の腕が、重い荷物のせいで痺れてきた。顔に出ていないだろうか。
同じ通学路の色がなぜか違って見えるのは、まだ今が昼過ぎだから。
「いつき」
舌ったらずだ、と自分で思った。続ける言葉はひとつしかなかった。樹、僕のことが好きだって本当?
「冬休みにさ、上野の博物館に行かない?」
そうじゃない。
「博物館? ええけど、俺、アホやからなぁ」
「僕も、ほとんどわかんないけど。す……面白いよ」
好きなんだ、という言葉を、無意識のうちに避けていた。どうしよう。もうすぐ樹のアパートに着いてしまう。
「俺んち、いま誰もおらんけど、寄ってかへん?」
思ってもみないチャンス、かもしれない。家の中なら、道端よりも話しやすい。昼ご飯を用意して待っているだろう母親の姿が脳裏に浮かんだが、後で電話を入れることにしよう。駄目だと言われても、帰るつもりはなかった。
「うん。行く」
ぱっと樹の顔が明るくなる。
「やっとやな」
そういえば、今まで何度も誘われて、毎回理由をつけて断っていたっけ。
「昼飯、俺が作ったるわ」
ガッツポーズをして笑う樹はとても幸せそうで、僕も幸せだった。
額のガーゼの白は、この世でいちばん白かった。
「ご飯作るって……」
その日の昼食は、カップラーメンだった。
「なんや。文句あんのか?」
銀色のやかんからお湯を注ぐ僕の肩に腕がまわり、体を揺さぶられる。
「ちょっと、危ないよ!」
しかも、お湯を沸かしたのも注ぐのも僕で、樹は隣でちょっかいをかけてくるだけだった。
「これが一番うまいんや」
樹はお湯を注ぎ終わったカップの蓋の上に箸を置き、両手に取る。
「居間は散らかってるから、俺の部屋行こうや。ま、部屋の方が散らかってるけどな!」
僕は樹を横目に追いながら、ダイニングテーブルの椅子の上に置いてある荷物に手を伸ばした。
「あ、置きっぱなしでええよ。母ちゃん帰ってくんの遅いし」
手に取った荷物を置き直す途中、鞄の中身が溢れかけたのを慌てて戻した。
急いで廊下に出ると、カップラーメンを両手にドアの前で立ち尽くしている樹の姿があった。飼い主が買い物から帰るのを、スーパーの前で待っている犬みたいだ、と思って、すこし可笑しくなってしまった。
「ドア開けてや」
ドアノブを捻って戸を開く。独特の匂いが漂ってきた。くすんだ煙の匂い。樹の部屋は、段ボールが放置されたままのリビングと違って生活感に溢れていた。古い畳。その上には起きた時のままであろう形で固定された布団。折りたたみ式のテーブルと、透明の衣装ケース。窓には子供部屋、という言葉が似合う空と雲の柄のカーテン。散らばった漫画と衣類、飲みさしのコーラのペットボトルとチョコレートの袋。意外に思ったのは、壁に大きな木が描かれた絵画が飾られていたことだけだった。
「適当に座ってや」
樹はテーブルを蹴って動かして、布団の脇に座った。それを見て僕はその正面に腰を下ろす。それを見た樹が、
「畳、ケツ痛いやろ。こっち座ってええで」
と言ったので座ったまま布団の上に移動した。そして、カップラーメンの蓋を開けた。
「まだ三分経ってないよ」
「ちょっと硬めの方がうまいで、ほら。乾杯」
押し付けられたラーメンを手にとって、乾杯をする。冷えた手が急激に温められ、痒くなった。
麺を啜りながら、切り出すタイミングを計る。樹は僕のことを好きだと言った。僕が言えないそれを、みんなの前で当然のように言ってみせた。友情、恋愛感情。僕が樹に対して抱いているのはなんなのだろう。「ゾンビの僕」に好きだ、と告げた彼は、本当に僕のことが好きなのだろうか。
「そんな食べるの遅いと、伸びてまうで」
信じられないが、樹はもう食べ終わっていた。スープまで綺麗に。僕が考え事をしていて時間を忘れていたせいもあるだろうけれど。
「え、うん。急ぐ」
「アホ、ゆっくりでええって」
こつん、とこめかみの辺りを拳で軽く叩かれる。
「樹」
今度はちゃんと発音できた。今度こそ。
「ん?」
優しい声だった。情けないが、何を訪ねるのだったか忘れてしまいそうだった。
「……いや、その。樹は、黒髪のほうが、似合うと思う」
樹は僕のことが好きなの? 何度も頭の中で反芻したはずの短い言葉にまた詰まって、ずっと思っていたことを告げた。
「そうか? 聖が言うんやったら、ほんまやろな」
茶髪を掻いたあと、ネクタイを解いてシャツのボタンを外し、布団の中で丸まっていたスウェットに着替え始めた。続いてベルトを外し、ズボンも同じように履き替える。その白い腹と腰に、またどきりとさせられた。
「初めて見た時から、そう思ってた」
彼は立ち上がって窓を開けながら、それなら早く言うてくれや、と笑いながら言って、衣装ケースの引き出しを開けた。取り出したのは、黒く染まった瓶とタバコの箱とライター。そして、窓から身を乗り出すようにしてから、振り返った。
「聖、体弱いんやったっけ」
僕は首を横に振った。
「タバコ、大丈夫か? また噎せるかも」
「そのことは言わないでよ」
麺を食べ終わり、カップをテーブルの上に置いた。スープは残した。
「隣で見ててもいい?」
樹が無言で手招きをしたので、僕も窓の前に立った。冷たい風が顔を撫でる。慣れた手つきでタバコを箱から取り出し、咥え、ライターがカチリと鳴る。じ、と紙と葉が燃える音がして、ふっと白い煙が口の端から漏れる。僕の手に箱とライターが預けられ、瓶の蓋を開く。いつもは表情豊かな樹の窄められた唇は、僕の目には特別に映った。
「内緒な」
「うん」
景色がいい、とは言えない三階の窓から見える住宅街の中に登っていく煙と、白い息を僕は見ていた。
「僕も、内緒にしてほしいことがあるんだけど」
誤魔化しのきかない切り出し方をしてしまった。
「ずっと、言おうと思ってたんだけど」
時間を稼ぐように、まどろっこしい言葉を繋げる。外を走るバイクのエンジン音に、ただでさえうるさい心臓が揺らされる。
「その、さ」
樹は、こういう時に遠回しな言い方をするのは嫌いだろう。
「好きだよ」
げほげほ、と樹が大きく噎せた。煙か息か、もしくはその両方が混ざった空気が、その口から溢れる。
「なんつーか、今更?」
ひとしきり笑った後、呼吸を整え、それだけ言ってタバコを瓶の中でもみ消した。
「なんでそんな泣きそうな顔してんねん」
窓を閉めて、衣装ケースの上に瓶を置いた樹の冷えた両手が、僕の頬を挟んだ。
「だって」
だって、なんなのだろう。僕は、嫌われるとでも思っていたのだろうか。それは、樹を信じていないということになるのではないだろうか。
「泣かんとってや」
タバコの匂いがする指が、僕の涙を拭う。指輪の部分が一層冷たかった。
「樹は、僕のことが好き?」
幼い子供が駄々を捏ねるように泣きじゃくり、手の中でタバコの箱がへこんだ。恥ずかしかったが止まらない。指輪の感触が嫌で、樹の手をどける。
「好き」
間髪を入れない、いつも通りの即答。
「僕がゾンビだから?」
「……寒ぃ」
手を引かれて布団へ戻り、またテーブルを足で蹴って元の位置へ追いやる。
樹は質問に答えずに、黙って僕の背中を摩っている。どんな答えでも、僕は樹のことが好きなことは変わらないだろう。はっきりと予想はつかないが、きっと彼の答えは優しいものだとわかっているから。泣きながらそんなことを思った。
「……あの絵」
ぽつりと樹が言う。顔を上げると、さっき目に入った大きな木の絵を示す指があった。
「親父が描いた」
細い枝が絡まって太くなったような幹に、よく見ると一人の男が飲み込まれている。
「菩提樹って言うんやって」
「ボダイジュ……?」
「うん。俺の名前も、親父がつけた。この木から取ったってさ」
生い茂る緑色の葉と、その合間から垂れる蔓状の枝と光。
「この木の下で、お釈迦様が悟りを開いたんやって」
仏教の話だろうか。
「俺の親父、ゾンビになって死んだ」
なんでもない話をするかのようなトーンでそう言った。驚いて樹を見ると、その大きな瞳が小さく震えていた。
「街で変な因縁つけられて、噛まれてな。そのこと、近所の奴とか、学校でも噂されてさ。親父は優しかったから、そんなんおかしいって考え込んで、鬱になって。俺とか母さんがゾンビの家族って扱いを受けるのが嫌だって、迷惑はかけられないって遺して、死んだ」
今度の声は、ひどく震えていた。僕はすっかり脱力した樹の手を握った。何と言えばいいのか、わからなかった。僕が何を言っても、樹を傷つけてしまいそうだった。
「そんなんだから、親父のこと噛んだゾンビのこと、恨んでしもてな。でも、親父もゾンビなんよ。おもろいことに」
僕よりも力強い手が震えるのを、黙って握り続ける。
「母ちゃんの地元がこっちやから、引っ越してきたのもそのせいなんよ。それで、入学する前に、八代に、このクラスには屍喰症のやつがおるって聞かされてな。大阪では親父以外に、身近におらんかったから。ゾンビが、聖が、誰かを傷つけるような奴やったら、殺したろって思ってた」
だから、あんなに突っかかってきたのか。
「でもさ、聖と話してみたら、なんか、変やん。聖、なんにも悪いことしてないやん。それやのに、噛まんと感染せぇへんのに、あいつらビビって、変やなって」
いつの間にか、ふたりで泣いていた。しゃくり上げている樹の言葉を待つ。
「そっちの方が、すげぇむかついた。親父もこんな気持ちだったのかもしれない。ゾンビじゃない奴らのほうがよっぽど死んでるって。聖には、嫌われたと思ってた。あんな真似して、呼び出し食らって。でも一緒に来てくれたやんか」
ひとつ、大きく息を吐くように樹は笑い、
「父ちゃん、何してるんやろな」
両目から大粒の涙が溢れた。
「……菩提樹、かっこいいね」
なにも言うことができない僕の、精一杯の本心だった。
「せやろ。夏になったら、黄色い花が咲くんやって」
樹はくしゃくしゃの顔で歯を見せて笑う。剥がれかかったガーゼから傷口が覗いていた。
「花言葉は、結婚。離れ離れになるのが嫌だったナントカいう名前の夫婦が、樫の木と菩提樹になったんよ。ギリシア神話の話やけど」
「……僕たちは、木になれないのかな」
樹が急に顔を上げて、息を整えてから真っ直ぐに言った。
「なる」
なんだかプロポーズみたいだな、と思い、あの日の言葉を思い出す。
「なる、って言ってなるものじゃないでしょ」
たしかに、と樹は呟いた。すこしだけ嬉しそうだった。だから僕も嬉しかった。
「なんで俺が聖を好きになったか、やったっけ」
もうその質問の答えは、どうだって良かった。理由なんて、最初からいらなかったのかもしれない。
樹の手が僕の手から離れ、すぐに柔らかく暖かい感覚に体全体が包み込まれる。
「聖が、聖だったから」
僕の肩に顔を埋めた樹が、はっきりと言った。ふわっとタバコの匂いがした。白い首筋が、僕の唇のすぐ横にある。
「うん」
何も変わらなかった。最初から。普通のことだったのだろう。それに、普通でなくても良かったのだ。
顔を上げた樹の手が頬に触れる。涙の跡が見えるほどに距離が近付く。
「いい?」
「いまさら?」
僕は笑った。
「まって」
互いの鼻が触れ合った頃、僕は樹を咎めた。
「指輪はずして。なんか、やだから」
わがままな僕の言ったそれに、素直すぎるほど、すぐにぱっと頬から手が離れる。
「元カノに貰ったっていうの、嘘。父ちゃんに貰った」
「嘘つき」
指輪のついた手を取り、僕のほうから唇を重ねた。自分の心臓の音か、樹の心臓の音か、もうわからなかった。
「……僕には、嘘、つかないでよ」
唇を離し、剥がれかかったガーゼを貼り直すと、樹は、いてっ、と短く言って顔を歪めた。
「じゃ、俺、はじめてこんなんやった」
「ぼくも」
「聖も俺に嘘つくなよ」
樹のほうからだった。今度はさっきよりも長い。
「これ、傷口?」
ワイシャツの隙間から覗く、赤黒い傷痕。噛まれた時のものだった。感染したときの傷は切除手術などを受けたとしても浮き上がってきて永久的に残る、と医者から言われていた。
「うん」
「なんか、むかつく」
樹は傷口に噛みつき、吸った。ゾンビが人間を噛んで感染するのは周知の事実だが、人間がゾンビを噛んでも大丈夫なものなのだろうか。止めようかとも思ったが、今更そうするのも納得がいかないので黙ってその背中に手を回した。
暫くの間そうしていた。傷口を、それ以外の場所を、ワイシャツのボタンを開けて鎖骨付近を、何度も何度も噛んで、吸った。
「キスマーク、できへんわ」
藤原にそうしたように、樹は僕に馬乗りになって、行為を繰り返した後そう言って、もう一度、僕たちはキスをした。首や肩のまわりに樹の顔が近付くたび、僕の視線はその首筋に釘付けになった。暖房のない、隙間風のひどい部屋なのに、体が熱い。
「ごめん」
そう言うと、樹は顔を離して髪を撫でてくれた。そして僕の横に寝転がった。右手を天井にかざす。陽の光に照らされてきらきらと降る埃と、光る指輪。真横には、樹の首がある。お釈迦様が見た菩提樹の下の景色も、こんな感じだっただろうか。
「ごめん」
もう一度そう言うと、樹は右手を下ろしてこちらを向いた。
「なに」
茶色い髪を、頬を、首を撫でる。
「こんなことしてたら、樹のこと、噛んじゃいそう」
目のやり場に困って、顔を毛布の中に埋めた。
「聖がそうしたいなら、してもええよ」
「したいけど、したくない」
なんじゃそりゃ、と樹は笑い、僕の頭を抱き寄せた。ふと、母親に電話するのを忘れていたことを思い出す。いいや、あとで謝ろう。次は僕の家に樹を呼んでみよう。樹を紹介したら、両親はどんな顔をするだろうか。きっと驚くだろうな。
「人間は、みんな地獄に行くんや」
寝る前の子供におとぎ話をするように、樹は僕を抱きしめたまま話し始めた。
「蚊を殺すだけで、酒飲むだけで、地獄に落ちる。でも、死んだ後に自分のことを想ってくれる人がいれば、逃れられるんやって。それなら、俺も地獄行きやろな」
「樹を地獄に行かせるような神様か、仏様か、わかんないけど。そんなやつの審判、信じないよ」
「まあな。でも、俺は思うねん、いま生きてるここが、そもそもそういう世界とちゃうかーって。天国と地獄との合間で、どうなるかは自分次第で」
髪を撫でる指が心地よくて、僕は目を閉じた。あたたかい。
「自分で掴み取った天国以外、俺はゴメンやからな」
「それでも僕は、樹が死んだら、樹のことを想うよ」
「嬉しい、けど、俺が先に死んだら、聖がひとりで悲しむことになるやろ。それは、嫌だ」
そんなの、僕だって同じだ。
「悲しいも、嬉しいも、最初っからひとりで思うものだよ。たぶん」
それから樹が、どこか懐かしい歌を口ずさんだり、独り言のように何かを呟いたりしていた。耳には入っていたけれど、微睡んだ脳には入ってこなかった。うん、とか、そうだね、とか、相槌だけを返す。
瞼の裏では、ふわふわした現実味のない景色が、露で湿った草の上で秘密の話をして、それから、大きな恐竜の化石を見て。ふたつの糸を結んでも結んでも結び目が消えない、と笑って。でも、そのほうがかっこいいよ、とまた笑って。何度でも結び直して。
そのうちに僕は、眠りに落ちていた。
目が覚めると、窓の外は暗かった。樹は僕の隣で眠っていた。優しいのか、単純に寝相が悪いだけなのか、僕だけが毛布を被っていた。そうだ、家に電話をしないと。
「いつき、樹」
寝ぼけたまま隣で眠る無防備な頬を叩く。いつも学校で眠っているのに、その幼い寝顔を見るのは初めてだった。
「んあ、なに」
「電話借りていい? 家に連絡するの忘れてた」
樹は半分眠っているような様子で、居間、とだけ呟き、寝返りをうった。独占していた毛布と掛け布団を露出した腹に被せ、ドアノブに手をかける。
「今日、泊まって行きや。クリスマスだから」
理由になっていない理由。口が達者な樹らしくないな、と思った。そういえば、今日はクリスマスイブだったか。母さん、想像以上に怒ってるかもな。
「うん。聞いてみる」
帰ってきなさい、と言われても、もう帰るつもりはなかったけれど。
リビングに出て、空いた胸元のボタンを直しながら棚の上に置かれている電話の受話器を取り、自宅の番号のボタンを押す。呼び出し音が一回半。深呼吸をする暇もなかった。電話の向こう側が応答する前に、僕の方から話し始める。
「もしもし。母さん?」
「聖! どこにいるの? 心配してたのよ」
やはり動揺していた。今まで無断でこんなに帰りが遅くなったことはない。
「ともだ……樹の家にいる」
友達、というのは腑に落ちなかったので、そう言いなおす。
「樹くん? お友達? いつ帰ってくるの。電話ぐらい早めに寄越しなさい」
「うん、今日は泊まるよ。樹のお母さんが、夕飯を作ってくれるから」
電気の消えた暗い部屋の中で、僕は嘘をついた。
「そう。今度、樹くんのお母さんに挨拶させてね。明日は遅くなりすぎないこと。それから薬は持ってるわよね」
心配はしていたようだが、声のトーンが上がっていた。
「ごめん。遊んでたら連絡忘れてて、持ってるよ」
遊んでいたら、という部分だけ、また嘘をついた。僕が何をしていたか知ったら、母さんは卒倒するだろう。朝晩に飲まなければならない錠剤は、そういえば万が一の時のためにと鞄に入れさせられていた。
「心配だけど、聖にお友達ができて良かったわ」
怒られるかと思っていた自分が恥ずかしかった。
「うん。優しくて、面白くて、いい子だよ」
それは、本当のことだった。じゃあね、と言って耳から受話器を離した矢先、母さんの慌てた声が小さく漏れた。受話器を耳元に戻す。
「それと、サンタさんは明日来るからね」
母さんは冗談っぽく笑って言った。わかった、と笑って返し、電話を切る。ふと時計に目をやると、まだ六時過ぎだった。
体が完全に目覚めていないようで、横になりたかった。樹の部屋に戻り、狭い布団に潜る。
「いいって?」
待っていたかのように、彼はこちらを向いた。
「うん。怒られるかと思ってたけど、大丈夫だった」
やった、と掠れた声で言って、樹は僕を抱きしめる。
そのあと僕と樹は、何度もセックスをした。下着も脱がないままで身体中を甘噛みしたり舐めたりする静かな行為は、そういう本や動画で見たものよりも随分地味で、性交渉と呼べるのかわからなかった。それでも僕にとっては紛れもないセックスだった。樹はくすぐったがっていたが、うなじと太腿の内側、足の付け根付近の噛み心地が好きだった。なんとか理性を保って、傷をつけてしまわないように努力した。それと、初めて舌を入れるキスをした。
どれだけの時間そうしていたのだろう。
枕元のデジタル時計を見ると、無機質な数字がクリスマスが来たことを示していた。
「不純異性交遊」
生徒指導の話を思い出して、テーブルの上に灰皿代わりの瓶を置いて、ほとんど裸でタバコを吸う樹の後ろ姿を、同じ格好で布団に潜りながら見て、独り言のように言った。
「不純でも異性でもないから、セーフやん」
確かに。めちゃくちゃな理論だが、今はそれでいいだろう。
「でも、タバコは体に悪いからやめてほしい」
出っ張った背骨をなぞる。
「どうしよっかなあ?」
試すような口ぶりに、僕は起き上がって脇腹をくすぐった。
「ちょ、危ないて」
揺れた指先に挟まれたタバコから、灰が崩れる。
「ねえ、一口ちょうだい」
すっと口の前に吸い口が差し出される。恐る恐る吸い込むと、喉や舌が痺れるような苦さに満たされる。すぐに煙が漏れる。
「不味いやろ、やめとき」
背中をトントンと叩かれる。軽い吐き気。頭がくらくらした。
「樹が先に死んじゃって、僕が悲しむの、嫌なんでしょ」
意地の悪いことを言っているのは承知だった。
「そうやな、もうやめる。親父が置いてったの、辛いこととか、悲しいこととか、あとは、すげぇ嬉しいことあった時に吸ってただけだから」
そっか、と返事をする。樹にとっての僕が「嬉しいこと」だったらいい。
部屋の外で鍵を開ける音がした。続いて、扉が開く音。
「やば、母ちゃん帰ってきた。これ着て」
樹がさっきまで着ていたスウェットの上下を投げ渡す。慌ててそれに袖を通し、ズボンに足を入れたところで、
「いっくん、寝てんの?」
はっきりした目鼻立ちが化粧でさらに強調されている、明るい髪で派手の服装の女性が部屋の戸を開いた。
「あら、いらっしゃい」
ハスキーな声も顔立ちも母親譲りだ、と思った。
「お邪魔してます」
ズボンに片足だけを通した間抜けな状態での挨拶。樹に至ってはパンツ一枚だ。
「前に言ってた、聖くん? ていうか、来てるなら言いや。知ってたらケンタッキーもっといっぱい買ってきたのに」
細い手に提げた袋を掲げるように見せる。樹とは違う、標準語と関西弁が混ざったようなイントネーション。
「後でええから! ドア開ける前に声掛けぇや!」
「だって、知らなかったんだもん」
快活に喋るところも、よく似ている。
「聖くん、泊ってくん?」
「は、はい。よろしくお願いします」
急いでズボンを履き終わってから、頭を下げた。
「そんな気ぃ使わんとってよ。あたし、何もしてへんし。それから、いっくん」
「いっくんって呼ぶなや!」
「なんでよ。いつもそう呼んでるやないの。もしかして聖くんの前だからって。じゃなくて、タバコ吸うなら窓開けなさい、あと――」
はいはいはい、と、ぞんざいに返事をする。
「エッチなことするなら、カーテンは閉めぇや」
かっと顔が赤くなるのが自分でもわかった。きっと樹も同じだろう。彼女は悪戯っぽく笑い、ケーキもあるわよ、と言い残して扉を閉めた。
「……いっくん、風邪ひくよ」
「あほ」
樹はすっかり拗ねて小さくなっていた。
「僕は平気だけど、樹は足りないかも、です」
フライドチキンを食べ終わって、油でべとべとになって行き場をなくした手を空中に浮かせながら僕は言った。
「うん。足りねえ」
僕が半分食べて残したポテトに手を伸ばし、ジャージに着替えた樹が咀嚼しながら言う。
「あとでコンビニでも行こっか」
「そうや。それなら黒染めのやつ買ってや、聖に手伝ってもらって染めるから」
樹のお母さんが骨を空き箱に放り投げて、紙ナプキンを僕に渡してくれた。自身も綺麗に整えられた爪先を拭っている。
「聖に、黒髪のほうが似合うって言われてん」
「あらま。あたしが同じこと言った時には染めなかったのに」
ケーキは風呂入ってから食おうや、と樹が言って、袋に直接口をつけて残ったポテトを飲み込んだ。
「眠くならないうちに、コンビニ行っちゃいましょ」
長い指で机の上から高級そうな、しかし使い込まれて端が擦り切れている長財布をとるのを合図に、僕たちは席を立った。
廊下へ続く扉を開くと、ひやりとした空気が流れ込み、身震いが走る。
「ほらいっくん、上着持ってくる」
いっくんって呼ぶな、と返事をした彼は自分の部屋に入っていき、すぐに二着の上着を持ってきた。首元にファーのついたカーキ色の長いコートと、ナイキのロゴマークが入ったシャカシャカした素材のジャケット、それとヒョウ柄のマフラー。
「どっち着る?」
僕が戸惑っていると、
「こっちが似合う!」
樹の母親に提案されたのはカーキ色のコートの方だった。
「じゃあ、こっちにする」
重い素材のそれを渡されて、言われるがままに袖を通す。首の周りがくすぐったかった。
「このコート……いっくんには大人っぽすぎるけど、聖くんには似合うわね」
タバコの匂いが染み付いたコートは、いつも着ている母さんが買ってきたダッフルコートとは全く違っていて落ち着かない。
「これも巻いて、外寒いから」
樹の手によって乱暴にマフラーが巻きつけられる。すこし苦しかったけど、そのままにしておくことにした。
日付が変わってから親以外の人と一緒に外に出るのは初めてかもしれない。コンビニに行くだけなのに、僕の胸は高鳴った。アパートの外階段を降りる足音だけが響く。そこに、カチカチと小刻みな音が混ざっているのに気付き、音の方向を見ると、両手をポケットに入れて綺麗な鼻と頬を真っ赤にして震えている樹がいた。
「マフラー、返そうか?」
「いい。俺は平気やから」
僕に対してつく嘘は、どうしてこうも下手くそなんだろう。
「なに笑ってんねん、うりゃ!」
マフラーとコートでの防御がギリギリ及ばない胸元付近に、氷を投げ込まれたかと思った。驚いてもつれた足を、階段の上でなんとか整えて、樹の手を取って抑え込む。
「あんまりはしゃがないの」
ぎゃ、と樹が悲鳴を上げる。うなじに、彼の母親が手を突っ込んでいた。僕は樹の右手を掴んだまま、自分のポケットに入れる。
「反対の手、握れないね」
僕が言うと、
「じゃあ、母ちゃんがもーらい!」
「めっちゃ恥ずかしいわ、これ」
樹は不満気にそう言ってはいたものの、表情はとても柔らかかった。
深夜に見る公園の木は、明るい時間に見るのと違って酷く歪んでいた。化け物の影のようにも見えるが、不思議と怖いなどとは思わなかった。ただ「そういう一面もあるんだな」と思った。
「一番星」
空を見上げる樹の口から、白い息が立ち上り、街頭の灯りに照らされて闇に溶ける。
「え、どこ?」
上を向いて空を探したが、どれのことを言っているのかわからなかった。僕の目では、澄んだ空と三日月しか見えなかった。あそこだよ、と樹は主張するが、やはり見つからない。
不意に体がガクンと引っ張られ、前につんのめる。
「ちょっと、危ないってば!」
左端の彼女が、空いた方の手で髪を掻き上げながら笑った。
「そうやで、聖。俺たちは運命共同体なんやから!」
「今のは樹が転んだからだよ」
「そうよ、いっくんが転んだとこ、あたしも見てたよ」
えー、と樹が嘆き、うなだれた後、すぐにはっとして顔を上げて、
「俺、この線から落ちたらサメに食われるから」
と大真面目な顔をして言った。
「切り替え、早すぎ」
僕の言葉が道路の白線の上に足を置くことに集中している彼の耳に届いているのかいないのか。
遠くに見える高層マンションの光の群れが、イルミネーションみたいだった。
コンビニの店内は嘘のように明るく暖かい。僕たちは手を解いて、陳列棚を物色する。買い物カゴに次々と菓子類や飲料を入れていく樹の母親がいきなり振り返り、
「聖くんも欲しいものあったら言いや、今日はクリスマスなんだから」
理由になっていない理由。お腹いっぱいなので、と遠慮すると、
「こっちの店、大阪より時給いいから。食べ物じゃなくてもええんよ」
間を空けずに耳元で囁かれる。
「ありがとうございます」
求めている商品を探して、僕が向かったのは日用品コーナーだった。化粧品やシャンプーの並ぶ棚を目で追って、目当ての物を取ってパッケージを見る。恐らく、これで間違っていないはず。酒類の冷蔵庫の前にいる、樹の母親にそれを渡した。
「あら、これでいいの?」
僕は無言のまま頷く。
「意外とちゃっかりしてるというか……」
しなやかな手で箱をカゴの中に入れ、レジへ向かう。
「樹、もう帰るよ」
会計をする彼女にお礼を告げて、コンビニに入ってからずっと漫画雑誌を立ち読みしていた樹に声をかけた。
「あと一ページで読み終わるねん」
開かれたページを覗き込むと、有名な海賊漫画があった。
「八代が好きなやつ」
「悔しいけど、八代もええ趣味しとるなあ」
樹は雑誌から目を離さずに笑った。
帰り道は徒競走をした。重いレジ袋を提げた樹に惨敗した僕に命じられた罰は、ケーキの切り分けだった。マフラーを巻いているのにも関わらず冷たい空気が肺に入ってきて、喉の奥が独特の鉄の味に満たされる。
「あんたらの若さにはついてけないわ」
早々に走るのを諦めて、途中からは歩いていた樹の母親がようやくアパートの階段を登り終えた。
「早く鍵開けてや! 寒いねんから!」
「やっぱり、寒いんじゃん」
その場で小刻みに足踏みをしていた両足が止まって、黒く、蛍光灯を反射してきらきら光る両目が僕を見る。
「今の、嘘やから!」
「嘘つかないって約束したのに」
「ごめんって、怒らんとってや」
怒ってないよ。
「あ! 黒染め、買うの忘れとった」
やっと追いついた樹の母親が、鍵を開けて振り返る。
「いっくん。袋の中、見てみなさい」
樹は袋の中に手を突っ込み、がさごそと手探りで漁った後、はっとした顔で僕を見た。
「聖くんがいてよかったわね」
ケーキを食べて、樹の髪を染めるのを手伝った。額に傷があるから今日はやめておいたほうが、と咎めたが、どうしても今やりたいと押し通されたので防水の絆創膏を貼ってからカラー剤を塗った。そのあと一緒に風呂に入って、ドライヤーで互いの髪を乾かしあった。柔軟剤の匂いのするタオルがふかふかして気持ちいい。樹の母さんが、僕のぶんの布団を用意してくれようとしたが断った。狭い布団でふたりで寝たほうが暖かいからだ。
寝る前に、樹によく似た笑顔の男性に手をあわせた。菩提樹の絵を描いていた親父の前でクリスマスを祝うのはなんか変だな、と樹は笑っていた。部屋へ戻るとすぐに、樹がカーテンを閉めたので、どきどきしたけれど、そのまま何もせずに手を繋いで眠った。
なんだか、色々なことがあった一日だったな。
次の日の朝、目が覚めると、またもや僕が布団を独占していた。
年が明けても、だらだらと続く世間の正月呆け。上野の国立科学博物館へ行った帰りの電車の中、遊び疲れた体に揺れが心地いい。樹は展示物を見て予想以上にはしゃいでいたが、僕は樹の黒髪ばかり目で追いかけていた。
僕が惹かれたのは、博物館の端っこにあったブースの展示物。感染性屍喰症界のアダムとイブ――そう称されてふたりの男女の写真が飾られていた。疎ましい病気の感染源の二人は、僕たちのように確かに愛しあっていたのだろう、なんとなくそんな気がした。
その時、クリスマスプレゼントと称して買ってもらった携帯電話が鳴った。古い型のものだが、両親との連絡用には充分だった。案の定、ディスプレイには「母さん」と表示されている。
「もしもし、今――」
電車の中だから、そう言いかけたところを歓喜の声に遮られる。
「聖、特効薬が配布されてるって。駅で待ってて、すぐ大学病院に行きましょう」
特効薬。なんのことか一瞬わからなかった。返答に困っていると、母さんが続けて言う。
「だから、屍喰症の特効薬よ。完治するのよ、傷も消えるって。テレビの速報で入ってきたの」
どうした? と隣に座った樹が問うてきた。目配せだけやって電話の向こうに話しかける。
「それ、本当?」
「本当よ、さっき保健所からも連絡が来たわ。子供を優先して配布するから、近くの病院へ行ってくださいって」
わかった、駅で待ってる、と答え、通話終了ボタンを押す。周りにも、僕と同じように電話を受ける人、かける人、声をあげて喜ぶ人、色々な人がいた。
「治るって」
何が起こったのか、正直理解できなかった。
「何が?」
近頃の僕は、自分がゾンビだということを忘れていた。
「わかんない」
病気、と呼ぶのも違うな。そう思って曖昧な言葉を返したが、車内の様子を見て、樹は電話の内容を察したようだ。その証拠に、樹が僕に抱きついてきた。
「この噛み跡も消えるん?」
変わらない、汗ばんだ手が首を撫でる。指輪は冷たいはずなのに、なぜだか暖かく感じた。
「うん。消える」
何度も確かめるように噛み跡に触れる指先のくすぐったさに悶え、それ以外の噛み跡――樹が噛んだ跡を見て僕は苦笑した。
「これが消えても、また新しく傷がつくよ」
「へへ、悪かったなぁ」
病院に行き注射を打っても、正直何が変わったのかわからなかった。現に、首の痣は消たし、血液検査の結果も陰性だったようだが。
学校が始まっても、特に変わったことはなかった。友達と呼べる人は存在しなかったし、八代は相変わらずワンピースが好きだった。けれど、もう藤原たちに冷ややかな目で見られても気になることはなかった。
きっと、八代にも藤原にも、彼らなりの「普通」が存在するのだろう。それが相違しているだけなのだ。僕と樹の「普通」すら、違っているのだから。そして、自分の普通の範疇からはみ出たからといって、攻撃する権利は誰にも無い。それでも、彼らが「普通」を武器にして、樹を酷い目にあわせるようなことがあれば僕は許せないかもしれないな。
いや、そもそも普通なんてものは、最初からどこにも存在しないものかもしれない。
そして、屍喰症が根絶に近付いていくにつれ、差別意識は薄れていった。忘れられていくのかもしれない。けれど、僕は絶対に忘れたりしない。あの頃の僕は、紛れもなく僕なのだから。
こういうことを「諸行無常」とか言うのかな。前に樹が、そう話していたような気がする。
高校生になったら一緒にアルバイトをして刺青を入れよう、と樹と約束をした。かっこいい木の刺青を、首筋に入れるのだ。
守られるかどうかもわからない、ふざけた約束だった。でも、そんなことは大した問題じゃない。僕たちが木になれるかどうかなんて、僕たちにすらわからないのだから。なろうと思ってなるものではないのだから。
ただ僕は樹を想い、樹は僕を想っていた。
僕と樹は、友達じゃない。恋人でも、家族でもない。
僕と樹は、聖と樹だ。
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