いつか春を祝おう

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いつか春を祝おう

 まったく、この匂いを嗅いでどうして気が滅入らずにいられる?  春だから? いや違う。満面の笑顔で両手に愛妻お手製のマフィンを盛大に籠に盛り付けて、カラヴァッジョの果物籠を持つ少年の如く両手で抱えた姿で幼馴染のバートがピアーブロッサム(梨の木)の下――つまり、僕の家の玄関横にピアーブロッサムはあるわけだから、玄関口と言うことになるのだけれど――に立っているからだ。  とは言え、少年とはおよそ程遠い、中年に片足を突っ込んだ体躯のデカい男だが。  シカゴ郊外マウントプロスペクトの住宅街は、早朝にも関わらず春の陽気に誘われて、庭の手入れや犬の散歩、サイクリングを楽しむファミリーまで見受けられる。  屋外に人が多いのは気温が上がったから。分かりやすい。一ブロック先に住む幼馴染のバートもしかりだ。  春だ! 万歳! ――いいや、心底うんざりするね。だってピアーブロッサムが満開だ。鬱陶しいくらいに。  そして近頃の日曜の朝は、こうして溜息から始まるのだ。甘く香ばしいマフィンの香りとバートの健康的な笑顔と共に。  嬉しい。正直ね。けれど、マフィンがセットだから、取り繕った笑顔ですら迎えられない。  ゆえに、溜息だ。  いい加減レシピを見直すべきではないのか。何度作れば学習する? 教会用にマフィンを作りすぎたって? 僕の初恋の相手と近頃結婚した愛妻が。  天使の生まれ変わりなのではと思うほど性格も容姿も素敵な女性だから、どうにも憎めないのだけれど。  それに、その愛妻が作るマフィンはお世辞じゃなく美味いから、またたちが悪い。  なんてったってすりおろしたキャロットとナツメグ入りなんだ。  断る理由がないだろう。幾ら初恋の相手を奪った女性の手作りとは言えども。  ただ、毎週恒例になりつつあるマフィンの差し入れも、今日ばかりは完成度の高い作り笑顔では出迎えられなかった。  そう、今朝のこの組み合わせは本当に良くない。  甘ったるく香ばしいマフィンの香りとこのピアーブロッサムの微妙な匂いが、目の前に立つバートと相まって嫌って程に気を滅入らせる。 「皺だ」 「なに」 「だから皺だ」  そう朝の挨拶よりも先に、バートが僕の眉間を指さして呆れ顔と共に苦笑する。  最高だね。どんな表情だって胸が締め付けられるほどかっこいいのだ。 「まったく相変わらずだ」 「精子の匂いだからね」  僕の今日の態度がいつも以上に燻っている理由をバートは――半分くらい――理解しているから気を悪くしたりはしないのだ。  ピアーブロッサムは精子の匂いがする。思春期を迎えた頃からずっと。僕だけかって? いや違う。ネットで検索してみれば分かる。  白くて可愛らしい花を咲かせる梨の木には気の毒だが、昨日から一気に花開いたこの花の匂いは誰がなんと言おうと精子の臭いで、なかなか春を喜んで素直に愛でる気にはなれない。  玄関横にこれを植えたのは両親だったが、言えるものならば、既に他界した両親には一言苦言を呈したい。できることならね。――だから、そう、ねえ? この三つ巴にどうして気が滅入らずにいられる。マフィンと横恋慕した男と精子の匂いなのに? 「桜なら良かったのに」 「常套句だな、めっきり」 「林檎の木でもいいけど、実になったら腐るしね」 「そうか? アップルバターでも作ったらどうだ。昔はよく一緒にアップルピッキングに行ったろう?」  大昔の話だ。  あの時は、母さんがよく作ってくれたから。 「アップルバターとくれば当然パンケーキが必要だね。それとアップルチップで燻したベーコンも一緒に。最高の朝食だよ」  そう、昔は。  はっきり言って好物だ。でもいったい誰が作る。お前か? それともあのお料理大好きの愛妻か?  幸せ垂れ流しののぼせ野郎が。  けれど、仕方がない。まあ、気を遣えと言うのが難しい話だ。  僕がマイノリティだと言うことをバートは知らないのだから。三〇年以上親友を続けてきているが。  クローゼットにしまい込んで、泣きそうになる顔は天を仰ぐか、眉を上げてやり過ごすかだ。 「それで? 今朝はマフィンを幾つ焼いたんだ」 「幾つだろうと、どうせゼミの連中にあげるんだろう?」  大学で僕が受け持つゼミの生徒のことを言っているらしい。  運良くと言うべきか、マフィンの翌日が僕の受け持つゼミがあるから、おおやけにはしていなかったが食べきれない分を早い者勝ちで生徒にあげていた事実をバートはなぜか知っているらしい。  どこからともなく情報を仕入れてくるのだ。愛想もよく顔も広いバートのことだから不思議には思わないが。  僕とて、もらったマフィンを又あげしていることをこれっぽっちも悪いなんて思っていないけれど。 「なあ、いつか言うべきだとは思っていたんだ。お前の奥さんの好意を踏みにじるようで遠慮していたけれど。どう消化しろって言うんだよ。毎週大量のマフィンを、僕一人でさ」  とうとう言ってやったと腕組みすれば、言われたバートが意外にも鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして押し黙った。口を半開きにして。  おっと、思った以上に好意を踏みにじってしまったのか。  一瞬の間をおいて、悪かったと口を開きかけた時、バートが弾かれたように、いや、腹を抱えて――この場合はマフィンを抱えてだが――笑いだした。 「な、なんだよっ」 「おいおい…、お前、そうだったのか」  いやはやいやはや、などと訳の分からないことを宣いながら話の途中で笑いの止まらないバートは、涙目を擦って、我を落ち着けさせようと片手で宙をヒラヒラさせながらどうにか喋れる状態にまでおさまると、一度大きく深呼吸をした。 「俺だよ」 「なにが」 「マフィンだよ。奥さんじゃなくて俺が、作ったんだ」  なんだって!?  喉の奥から飛び出してきそうな言葉を飲み込んでしまうほどに、まさに驚嘆して思わず絶句だった。 「教えてもらったさ、当然な。教会のはジェシーが作ってるが、お前のは俺だよ。気づかなかったのか?」  皮肉混じりの片眉上げていたずら小僧のように笑うバートにいろんな意味で釘付けになる。 「気づくわけないだろ……」 「そうか? すりおろしたキャロットと、ナツメグいりだぞ」  そう言って宥めるように笑う。  少しトーンを落とした、バートの優しい声に、ふと僕の瞼を過ぎ去った大切な思い出がかすめるようによぎる。寂しさと悲しさと懐かしさと恋しさを含んで。  訳もなく喉の奥が詰まった。鼻の奥がツンとして目頭が熱く訳もなく涙が零れそうな、そんな感情がせり上がってくるように。 「……僕の好物だ」 「ああ。知ってる」 「母さんが……」 「お前のお袋さんがよく作ってくれたよな。知ってるだろう? 俺もあの味で育ったんだ」  バートの母親はバートを産んだ時に不運にも亡くなってしまった。  バートの父親は僕の父さんの友人で、父親が仕事で家をあけることが多かったことから、物心着く前からバートは僕の家に居ることが多くなった。  思春期を迎えてもずっと。それこそ本当の兄弟のように喧嘩も沢山して。  母さんは、バートのことも息子のように可愛がっていた。  いつからだったかなんて思い出せない。  この家で、母さんの作る晩御飯をバートと一緒に食べるのが当たり前となって、日常となっていた。  僕がバートへの想いに気づいた頃から、この大切な日常を壊すまいと必死で己の気持ちと戦ってなんとか乗り越える術を身につけたが、それも、一年前、両親が車の事故であの世へみまかれてから心の均衡が危うくなった。  それでも自分の足で立っていられたのはバートが寄り添ってくれていたからだ。  そのバートも二ヶ月前にあっという間に結婚してしまったが。  プロポーズして直ぐに。盛大な結婚式とは程遠い、ダウンタウンのレストランを貸し切って、身近な友人だけを集めた簡単な結婚パーティーだった。  盛大な式だったら、もしかしたら泣けたのかもしれない、と時々思う。  あまりに急で簡潔過ぎたから、心がついていけず、なんだかまだ宙を無駄にさまよっている気分だ。  このままどこかへ飛んで行ってしまおうかと思うのを、なんとかつなぎ止めていてくれたのは、そう――そうか。  不意に悟って「はは」っと息が零れた。  ――マフィンか。  バートが結婚パーティー以来ずっと毎週かかさず大好物のマフィンを届けてくれたのは僕のためだった。  お前は一人じゃたいぞ、と。  友人として、親友として。  塞ぎ込みそうになる心をマフィンの香りに、いや、それを運んできてくれるバートの笑顔に知らず助けられていたかもしれない。正直、新婚生活真っ只中であっても変わらず顔を見せにきてくれることが、嬉しかった。土曜日になると日曜日が待ち遠しくて、無駄に胸が踊ったものだ。馬鹿みたいだった。  このマフィンの真意を今更ながらに知って、こんなにも大事なものを感謝もなく頬張っていたのかと、後悔と反省の意を兼ねてマフィンを見つめる。  そして、そのまま籠を持つバートの手へ……指へ。視線をそらせば、 「愛してる、ダニー」  不意に頭上からとんでもない神のお告げが降ってきた。 「愛してるよ。ダニー」 「…………」  反射的に顔をあげた先に、バートの真剣な眼差しとぶつかる。  春の呑気な風がゆったりとピアーブロッサムの枝を揺らす中、静まり返った二人の間に、僕の思考が錯綜していた。  愛してるよ。ダニー。  もう一度、マフィンの籠を手渡しながらバートが言った。  渡されるままに籠を受け取ったものの、反射的にあげたままの顔はバートからそらせずに、開いた口は、受け取った籠の重みと共に閉じた。だが、言葉が出ない。  頭が真っ白だった。  そんな僕をバートはいつも以上に真剣な表情で見下ろしてくる。  戸の端に預けていた左腕を下ろすと、意を決するように切り出した――「引っ越すことになった」と。 「……そうか」 「仕事で、日本にな。短くて五年だ」 「…………」 「辞令が出たからジェシーとの結婚を急いだんだ」 「つまり……?」 「来週、発つ」 「…………」  なんてことだ。顔が、理性が追いつく間もなくひしゃげて、歯を食いしばったそばから嗚咽がこぼれた。  どうしてもっと早く知らせてくれなかったのか。  心の準備も出来ないまま愛しいものがことごとく足早に去っていく。  残されたものはピアーブロッサムと腕の中に抱えた思い出の味だけだ。  それだって、すぐに無くなってしまう。  マントプロスペクトの端っこで、ひっそりとしがない大学准教授なんてものをしながらカミングアウトも出来ずに一人、一日一日を過ごすんだ。  腕の中の母さんが作ってくれたものと同じ香りをたずさえたマフィンが、どうしようもない寂しさを呼び込んでくる。  大好きなバート。  たかが引越し程度で子供みたいに泣く僕をバートは驚きもせず、困惑もせず、ただ、優しく頭を撫でてくれた。  大きな手だ。大好きな手だ。焦がれた手だ。 「愛してる、ダニー」  また、バートが言った。  僕も、とは言えなかった。バートの愛してるは、僕の愛してるとは全く意味が違うからだ。  今なら分かる。頭から伝わるバートの手の温もりで。 「どこに居ようと、お前と俺は家族だ」  そう、その通り。家族としての愛してる。  愛してるなんて言葉は曖昧でやっかいだ。  嬉しいのに、悲しい。温かいのに寂しいのだ。 「俺は、お前の側にいてやれない」 「その贖罪がマフィンなのか?」  ようやく出た言葉はなんとも皮肉めいたものだった。  バートが調子が戻ったようだと笑う。 「贖罪じゃない。愛情だよ」 「クソ喰らえだな」 「ああ、どういたしましてだ」 「こんなに取り乱して、僕は馬鹿みたいだよ」 「俺も寂しいよ」 「バート」  泣き腫らした顔で名前を呼ぶと、バートが困り顔で笑った。 「まったく、俺の家族って言う覚悟は、お前が思ってる以上なんだぞ」 「覚悟……って」  バートは人差し指を僕に向けると肩のあたりを二回強くつついた。 「お袋さんは気づいてた。だがな、俺が気づいたずっとあとにだ。見くびるなよダニー。俺はお前のことなら何でも知っている。お前がゲイなのもな」 「なにっ」 「俺に対するお前の気持ちもな!」 「バカかっ!」  玄関先で大声で! 「バカなのはお前だっ。ゲイだからって見捨てたりしない。俺が離れていくとでも思ったか。言えば俺は受け止めた。お前の気持ちを受け止めたぞ。そりゃ応えることは出来ないさ。だがな、お前から離れたりは絶対にしなかった」 「なんてことだ……」 「一人で抱え込まずにもっと頼ってくれていんだ、ダニー。親父さんとお袋さんを亡くした今ならなおさらだ。お前だって、俺のこと家族同然だと思ってたろっ?」  思ってたさ。今でも思ってる。  いつだって一緒に過ごしてきた。屋根裏部屋でボヤをおこして怒られた時も、学校を抜け出してカブスのデイゲームを見に行った時だって。毎日の夕飯をここで共にした。 「今までの人生が証明している。俺とお前は家族なんだよ」 「僕にどうしろと?」 「今まで以上にもっと俺を頼れ」 「それだけか」 「約束しろ」 「約束するよ」 「どこにいたって、俺たちは家族だ」  そう言われも日本は遠い。 「オヘア空港からものの十三時間だ」 「想像を絶するね」 「いい相手を見つけろ、ダニー」 「…………」 「俺じゃなく、もっと見込みのある良い奴をな」 「見込みって……」  そりゃそうだ確かに、と思わず笑ってしまった。  付き合える見込みのあるゲイを。 「お前以上がいるかな。ただ――ああ、お前より見込みがある奴は、いるだろうな。確実に」  バートも笑った。 「そいつといつか日本に来い。ピアーブロッサムが満開の鬱陶しい季節に、サマーバケーションを返上してでもな」 「なかなかハードな任務だね」 「無理に作れとは言ってない。ただ、相手ができたなら俺に会わせろよ。いつまで経ってもできそうになけりゃ一人で来い。とにかく、お前と一緒に桜が見たい」  そう言って僕の肩を軽く叩くとグッと強く掴んだ。分かったか、と。 「分かったよ」と返事を返したが、それはきっとバートを完全に吹っ切れてからになるだろう。  過渡期だ。と心の中で天を仰いだ。  そろそろいい加減、いや、遅いくらいか。  前に進まなければって時期にきているのだ。それも随分前から。  僕は、まずその一歩として、マフィンの籠を片手に持ち直すと、そっと右手を差し出した。  ずっとバートを想い続けてきた少年の頃の自分が脳裏を駆け抜けていく。なんだか寂しかった。  ただ、これだけは言える。僕は一人じゃない。  差し出した手をバートが握り、僕も握り返した。 「気をつけて行けよ。そのいつかを楽しみにしてる」  と言えば、バートは僕を引き寄せて軽いハグをした。                               了
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