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人の悪意。それは、菖蒲が最も苦手とするトラウマの根源だった。喚起された過去が血管から体中を巡るように菖蒲の全身を震わせる。
イリスは菖蒲の態度から、先程の女生徒とは初対面だと見抜いていた。菖蒲に心当たりなどあろうはずもない。あったとしても、一方的な恨みでしかないだろう。弱者の妬み嫉みを浴びるのは序列上位者の宿命でもある。
特定できないからこそ、イリスは身の回りに注意するように言ったのだろう。女生徒の標的が菖蒲であった事だけは、確実なのだから。
「あ、ありがとう。肝に、命じておく」
出鼻を挫かれた思いで、二人は青龍寮に向かう。校舎内で少年の引き渡しを行うと矢鱈と人目に付いてしまうという配慮から、朝の段階で指定した寮の管理人室を送迎に利用する手筈となっていた。
無事に少年を預かり、菖蒲はイリスと別れて一先ず自室へ。部屋の前に誰もいない事に安堵を覚えた。中に入ると、菖蒲は忘我の心地で息を吐いて制服姿のままベッドに倒れ込んだ。
昼頃から目的意識に従順だった思考は、今や雑念に埋め尽くされていた。背中を丸める。小さくなった身体から不安が溢れる。
「……どこ行っちゃったんだよ、のえる」
思えば。
恵流が不在になったのは性別を偽って以来、初めての経験かも知れない。
そして、ようやく菖蒲は一人を意識した。これまで自身を守っていた鎧がなくなり、丸裸なのだと気付いた。
――怖い。
唐突に冷たい恐怖が菖蒲を襲う。このまま恵流が戻ってこなかったら、自分は一体どうなってしまうのだろう。
「あはは……」
そこで、自嘲が零れた。自分は何と弱いのか。弱いままなのか。未だ、誰かの助けを求めている。
「自分のことばっかり」
両目を片腕で覆う。瞼の裏に描いたのは、一昨日の晩の恵流の姿。一度見失えば夢と消えてしまいそうな、恵流の背中。掴み損ねた、その手。
――あの日の夜、恵流は何を考えていたのだろう。
きっとあの時、恵流は誰かの助けを求めていた。あの日以来ずっと考え続けていた事が、再び菖蒲の意思に火を灯す。
「今は、私の事はいい」
『菖蒲が僕の為に僕の事を考えてくれるなら、僕も菖蒲の為に菖蒲の事を考えてもいいよ』
「のえるの為に、のえるの事を考える」
そして菖蒲は気力を振り絞って行動を開始する。以前の菖蒲であれば考えられない立ち直りの早さだった。
「まずはネットで情報を集めよう。何か糸口が見つかればいいけど」
だが、因果な事に。その行動が、奇しくも菖蒲が努めて廃棄した不安の答えを明示する事となる。
――『鶴来菖蒲は女性である』
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