三章:本当の自分

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だが、七色は幾ら自分が駄々をこねた所で事態は進展しないと確信していた。両の瞼を閉じて、静やかに深呼吸をする。 「……ここは、どこぞの誰かのように嫌味ったらしい世界ですね」 小さく吐き捨てると、待ちわびる恵流の双眸を受け止めた。 「最初は暗黙の了解みたいに。この時間に、この辺りに彼が現れるようになりました。それがいつしか約束をするようになりました。他愛ない話をしたり、ゲームをしたりして過ごしました。特別な事なんて何もない。あたし達はこの場所で、そんななんでもない時間を積み重ねてきました」 七色とシロ君の記憶の中にだけ存在している思い出を恵流に共有する行為も、七色にすれば断腸の思いだった。 「あたしは、彼の事を殆ど何も知りませんでした。友達だと宣っておいてバカみたいな話ですが、本名だって知りません。知っていたのは、この病院に”大切な妹”が入院しているという事だけ」 「その妹さんに会った事はある?」 「尋ねた事はありますが、教えてくれませんでした。あまり自分の話をしたくないのだろうと結論して、あたしはそれ以上の詮索を避けて……いえ、それで良いと甘えていたんだと思います」 「バナナさんが甘える、ねぇ。ちょっと想像できないけど、ああでも……そうなった事情は、推測出来なくはないかな」 七色は勝手な想像を咎めたかったが、図星を当てられる未来が見えてしまった為に今は話を進める事を選ぶ。 「ある日を境に、彼はばったりと約束の場所に現れなくなりました。一日が経ち、約束を反故にされたという小さな憤りは心配に変わり、一週間もすれば不安になりました。その時になって、あたしはようやく後悔したんです」 「――その”彼”の事情を、ちゃんと聞いていれば良かった、と」 なるほどね、と恵流は七色を嘲るでもなく頷く。恵流の胸中に浮かんだ僅かな失望は、これ以上は七色から恵流の求める情報を引き出せないという事実に対してだ。 「はい。叶うなら、もう一度……再会して、今度こそ自分の事ばかりではなく、強引にでも彼を取り巻く状況を聞き出したいと、強く思ったんです」 その願いは、未だ果たされず。その別離は、おそらく永遠なのだろうと七色は覚悟していた。ゆえに後悔。取り戻せない過去である――筈だった。 「皮肉だと思いませんか?」 届きそうで、届かない。 「そうだね」 七色の言わんとしている意味を正常に受け取りながら、恵流は異なる解釈を持って肯定する。 「これがあたしに話せる全てです。そして――」 七色は既に恵流を見ていない。その視線は、徐々に輪郭を失っていく景色に向けられている。 「――再現も済みました」 自身の事情を打ち明ける。それは恵流に台本を渡すという手続きでありながら、それ自体が過去の繰り返しになっていた。 シロくんの実体には少しだって迫れない。何故なら、恵流には記憶がない。どうしたって、何が突然の別れをもたらしたのか、何処に行ってしまったのかも聞く事が適わないのだ。 結局、七色は自分の話をしただけ。見事に目的を達成している。意地の悪い事この上ない。こういうものだと理解していても、恨み節の一つや二つも言いたくなる。 それでも、二人の髪色と同じ白に溶け出していく世界を見送ろうとしている七色は、その有り様を何処までも受け入れていた。 「バナナさんは、この結末を変えてやりたいと思わない?」 だが、ここにきて初めて恵流と食い違った。 「僕は、こんな訳の分からない仕様の思い通りになるのは釈然としないや」 その反抗は、何と子供じみた理由なのか。
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