三章:本当の自分

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無自覚だったかと言えば嘘になるが、七色はもう幼稚な意趣返しを続ける気にはなれなかった。襟を正す。 「ごめんなさい。他の考え事をしていて上の空になっていました」 恵流が訝しむ視線を送るが、これもこれで嘘ではない。昨晩から消化がしきれずに胃もたれを起こしている懸念が胸の内に燻っている。 「あたしからも幾つか聞きたい事がありますが、まずは貴方の質問に答えます」 「ああ、うん。その順番の方が結果的にバナナさんの質問にも答えやすくなると思うよ」 ――だからその以心伝心気取りを改めろ、と。その苛立ちとは似て非なる感情が表出しかけるも、七色はぐっと堪える。 「先ほどもそうですが、昨日もここで貴方と別れてから、その子供の様子を担当の人間――昨日は宮園陽になります。彼女に文面で訊ねたところ、特に変わりないとの事でした」 「まあ、そうだよね」 「先ほども念の為にこの目で真偽のほどを確かめましたが、いつも通りの愛くるし――こほん。とてもかわいい子供でした」 「ん? 今のは何を取り繕ったの?」 恵流には同じ意味にしか聞こえなかった。 「…………」 「…………」 七色も、同じ意味でしたと思っていた。 「要点はそこではありません」 「バナナさん。少し見ない間に随分とポンコツになってない?」 「弁解のしようがありませんが、貴方に言われると腸が煮えくり返る思いです」 七色は以前から菖蒲が絡むと常識の枠に囚われなくなるきらいがあったが、どうやら愛情表現全般に問題があるようだった。 「この件をしつこく掘り下げてバナナさんを羞恥で悶えさせたいって気持ちが溢れそうだけど、どれだけの時間が許されているか分からないから断腸の思いで話を進めるよ」 果たして恵流は分かってやっているのか。恵流の真面目ぶりに、七色は心底己を恥じる事となった。自分は一体何に振り回されているのだろうか。四方山な感情は一端思考の外側に捨て置く。 「要は、その子供の意識が”この僕”ではなかったって事だよね。僕が演じている風でもなく」 七色が頷いたのを見て、恵流が続ける。 「その通りだよ。僕は、バナナさんにとって昨日になるのかな。この場所で僕のままだ」 「では、貴方は……」 「ずっとここにいた。現実にいる今の僕の姿と同じ姿をした子供と何かを共有している気配は微塵も感じない。気が付いたら、また君が目の前にいたんだ」 「貴方の置かれている状況は分かりました」 宣言に偽りなく、質問をせずとも七色の気がかりに答えているのがまた憎い。 「共有している気配はない、ですか」 「何か気になる事でもあるの?」 「あるといえばありますが……」 話すのを躊躇うような内容だが、恵流が朧げに編んでいる仮説を根底から覆す材料だ。
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