三章:本当の自分

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それからしばらくは二人の靴裏が廊下を叩く音だけが響く時間が続いた。五階に続く階段を昇る最中に、ふと恵流が言う。 「静かだね」 額面通りに受け取るには、七色も共通の違和感を持ってしまっている。恵流の声が良く聞こえるのは、他の音がないからだ。 「前振りではなかったのですが……」 「なんの話? というか、バナナさん」 不意に恵流が侵されることのなかった距離を埋めて、七色の顔を覗き込む。階段の半ばで立ち止まって、表情で露骨に嫌悪感を示す七色だが、恵流には糠に釘だ。 「あれ、気のせいじゃなかった」 「なんの話ですか?」 今度は七色が尋ねる番だった。それから『しまった』と思う。性格の歪んだ恵流の事だ。これみよがしに『質問に質問で返した』七色をあげつらい、回答を迫ってくるだろう。 と、身構える七色だったが、その予想は全くの見当違いだったと知る。 「バナナさんは元々かなり肌が白いから分かりにくいけど、顔色が悪いよ。もしかして、体調を崩してたりする?」 想像すらしていなかった純粋な心配の言葉に、七色はまず戸惑った。よもや恵流が人の顔色を窺えるとは――そんな取り留めのない誤用を脳内で展開してしまう程度に。 「体調不良を押して僕との約束を重視してくれたのなら、ありがたいけど迷惑かなぁ。押しつけがましいって言うか、心づかいが重い?」 「少しでも感動したあたしがバカでした」 「あはは、やだなぁ。バナナさんは結構バカだよ?」 「失礼極まりないです」 「生粋の菖蒲バカ」 「褒めても何も出ませんよ」 満更でもない様子の七色に、恵流は無邪気な笑顔で告げる。 「普通にバカだね」 「バカバカ喧しいです」 七色は頭が痛くなってきて額を押さえた。ついでに、聞かれたからには答える事にする。わざわざ隠すような事でもない。 「実を言うと、この案内を始めた頃から少しずつ頭が重たくなっているような気がします。貴方は何ともないようですから、あたし自身に原因があると思うのですが……」 「バナナさんに心当たりがないなら、この状況がバナナさんの異常を引き起こしている可能性もあるよね」 こじつけにしても強引な見解を一笑に付そうとした七色だったが、そうとも言えない前例を思い出して口を噤んだ。 菖蒲の具象領域(オーバクロック)の反動。仮想体(アバター)に強烈な負荷が掛かった際に、実体の身体に大なり小なりの反映(フィードバック)が起こる事象を七色は知っている。 だが、如何せん七色には負荷が掛かっている自覚はない。今もポッドの中で横たわっているであろう身体はすこぶる健康体だ。 「僕たちは……僕は、何か致命的な見落としをしてたりするのかな」 ――ここは、主役のやり直したい過去を再現する舞台。 「それか、大きな勘違いをしているとか」 ――人通りの途絶えた階層。登場人物の不調。 「とりあえず、今日の散策はここで切り上げよう」 一人でに結論して踵を返す恵流に、七色は咄嗟に声を上げる。 「ですが、本館はこの階を残すのみで……」 何より、自分の体調を気遣われて進捗を悪くしてしまうのは気が引けた。しかし、恵流は聞く耳持たずで階段を下りていく。 七色とて、本当は理解している。その考えこそが我儘なのだと。今回ばかりは分が悪い。 「……どうして貴方はそういう心づかいが出来るのに、普段は敵を作る言動ばかりするんですか」 小さな。誰にでもない呟きは、二人だけだと錯覚してしまいそうな世界の中で、やはり誰にも届かず、静寂に飲み込まれた。
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