一章:危機はチャンスじゃなくてピンチ

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――鶴来菖蒲は人が苦手だ。 それは幼き頃に胸に刻まれた傷の痕。当時から五年以上を経ても未だ塞がらずに、じくじくと血を流している。 艶めく栗色の綺麗な髪の下に覗く魔性の紅い瞳。非の打ち所のない目鼻立ちを認識する前に、人々はもう魅了される。その容姿に月は隠れ花は閉じる。 一を聞かずとも何となく十を知る。いわゆる神童としての資質も開花していた。まさに秀外恵中。菖蒲が神様に惜しみなく与えられた才能(ギフト)は、菖蒲にとって幸運であり、不幸の全てでもあった。 菖蒲が今の菖蒲になった日の出来事は鮮明に覚えている。 無垢ゆえに、行き過ぎた好意。菖蒲を想うあまり、男子達は暴走した。菖蒲がリコーダーなどの消失の犯人を理解する頃には手遅れだった。 気持ち悪いと、素直に思った。気味が悪いと、異性という存在に心の底から嫌悪感が芽生えた。 純粋ゆえに、どす黒い悪意。羨望と表裏一体の嫉妬を、女子達は短絡的にぶつけてきた。キッカケは朧気だ。菖蒲には何が気に触ったのか、判然としていない。 ただ、彼女たちが掲げた大義名分が”言いがかり”に過ぎない事だけは認識していた。 水面下で陰口の言い合いによる細やかな諍いを繰り返していた彼女たちは、けろっと嘘のように徒党を組んで、住処に紛れ込んだ害虫(イブツ)を排除するように、菖蒲を叩きのめした。 菖蒲にとって、多くの他人は残酷だった。 ――立ち向かう事は出来たのだろうと菖蒲は思う。 同じ事をすれば、大抵菖蒲の方が上手になる。 男子は適当にあしらおうか。無碍にするなんて勿体無い。好意を利用して、毎日を豊かにしよう。 女子には政治をしよう。同調し、協調し、悪意を持って共通の敵を仕立てあげ、矛先が自分に向かないようにしよう。 他人がそうであったように、菖蒲にも同じ選択肢があったのだ。 けれど、菖蒲は”逃げる”事を選んだ。 ひらひらと自由に舞う蝶を捕まえ、その鮮やかな翅を嬉々としてもぐような真似が菖蒲にはどうしても出来なかったから。 恵まれすぎていた菖蒲は、その代償に致命的なまでに己を偽る才能が欠けていた。 そして、好意は、悪意は、いっそう増長した。そうして、もう幼い菖蒲一人では収まりがつかない規模になってしまった。 菖蒲は悪意から逃げ続けた。傷つきたくないから。傷つけたくないから。沢山のモノを捨ててきた。遂には性別まで捨てた。 菖蒲は菖蒲自身を削りながら、走り続けている。 それでも。 菖蒲は今も、過去の悪夢から逃げられずにいる。
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