一章:危機はチャンスじゃなくてピンチ

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 ◇   ◇   ◇ 鈍い菖蒲にも、その気配は感じ取れた。教室に入った時から――いや、重苦しい気持ちを引き摺って寮の自室を出た瞬間から、世界の様変わりを肌で受け止めていた。 遅刻直前に登校を果たした菖蒲を迎えたのは、クラスメート達の異質なモノを見る眼差しだ。 廊下にまで漏れていた取り留めのない談笑の声は不自然に音量を落とし、遠巻き或いは露骨に菖蒲に意識が集まる。 菖蒲に続くように担任の姿が教室に現れると、菖蒲に追求の手が及ぶ事はなかった。もう噂は人から人へ広く渡り切っているのだろう。菖蒲は無関心を装って自身の席に座る。 菖蒲は情報収集の為に漁っていたスレッドで自身の秘密について触れられている文章を発見した時に、この光景を予感していた。 あれからまた少しずつ菖蒲の”男装疑惑”の考察と数々の状況証拠という根拠が上げられ、妄言では一蹴できない段階にまで信じる者が出てしまった事を菖蒲は知っている。 理由をでっち上げて休もうかとも考えた。菖蒲は土曜日に重めの風邪を引いている。それがぶり返したと言えば、一定の信憑性は得られるだろう。 だが、それは単なるその場凌ぎになれば寧ろ僥倖で、大多数にとって邪推の種になるのが関の山。だから、勇気を振り絞って衆目にその身を曝した。 その結論に間違いはない自信はある。だが、それとこれとは話が別というもので。 「ふぅ……はぁ……」 小さく深呼吸をする。先程から視界が狭い。息も荒い。動悸がやかましい。苦しい。 菖蒲はバケツをひっくり返したような後悔に襲われていた。 ――もう早退しちゃおっかな。本当に体調が芳しくないから大丈夫だよね。 などと、ここぞとばかりに弱気が殺到している。こうして教室に来ただけでも菖蒲にしては良く頑張った。これまでの菖蒲からは考えられない快挙だ。讃えてもいい。 恵流という茨の鎧を纏っていない今の菖蒲は、さながら戦場に丸腰の私服姿で放り出された一般人。こんな危ないところからは早く逃げ出さなければ! 明滅する視界。菖蒲の心に巣食う過去の亡霊は、遠からぬ未来に訪れるかも知れない白昼夢を見せている。どうせ自業自得。内心で他人事のようにから笑い。 それでも、拳だけは強く握る。意思を奮い立たせる。 「思い出せ……」 空席。そこに気の置けない友人の姿を夢想する。恵流はいつだって堂々としていた。時には凶器にさえ転じる悪意をいなしてきた。 そこが空席となった原因を。愚鈍なばかりに、伸ばされた手を掴み損ねた失踪の前夜を。あんな無様をこの人生で後何度。幾度、繰り返すつもりなのだと叱咤する。 「これっきりにするんだ」 そうして、今日。菖蒲は懸命に己を鼓舞して登校を果たした。 ――過去に立ち向かう為に。 『菖蒲に必要なのは踏み出す勇気じゃないんだ。もっと根本的な、立ち向かう理由だと思うよ』 いつか、菖蒲の男装デバイスの復旧に時間を要すると聞かされた日の恵流とイリスの会話を菖蒲は洗面所で隠れて聞いていた。 『心配しなくても、菖蒲は進んでるよ』
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