3章「知らない方が円滑に物事が進むこともあると思うんだわ。」

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産毛の散る腕を、湯が這う。 傷跡だらけの白い足を、一枚の剃刀が行き来している。 まとわりついた湯と泡が抱えられた足を伝って、彼女のジーンズを濡らしていた。 そのことを謝ろうにも、声が上あごに張り付いて出てこない。涙ながらに喘ぐようなその様を、その人は「んー?」と、伏せた瞼を上げることなく喉を鳴らした。 薄墨のような前髪が、彼女の目元を覆い隠してどんな表情をしているのかわからない。 四角いタイルの上に転がされて、持ち上げられた足のくるぶしを、白く繊細な指が、まるで魚のうろこでもはがすように手早くアキレス腱の上までを剃り終える。 窓から差し込む薄明りに、剃刀がテラリと光った。 長らく家に閉じ込められていた私が、売られることになった。 不倫騒動の末、失踪した母の置き土産を長い事家に置いておいたのは父の優しさなのかもしれないと、6つの時に自分に言い聞かせてから10年間。家の外から出ることもままならず、ただひたすら床を這うような生活を続けてきた結果がこれだった。 何かあった時の、生贄に過ぎなかったんだ。生かさず殺さず、ただ置いておいたんだ。その事に、馬鹿な私はやっと気づいた。 家にやってきたのは、若い女だった。 「商品を受け取りにまいりました。」と襟首のバッジをかざす女は、ツクモと名乗った。 引き出された私の手をとり、「では、確かに受け取りました。後日他の者が参りますので、料金はその際に。」という声と共に、思っていたよりもずっと軽く私は売り飛ばされたのだ。 乗り込んだ車の中で、ツクモという女は運転手と一言二言何か喋っていたが、緊張から心臓が嫌に早鐘を打ち、息苦しさからつい目を閉じた。 そのまま気が付いたら丸1日眠った挙句、4日間も布団の中で看病されることになった。 おとなしくしててねー、という女の言葉に委縮しながら布団の中でひたすら横になっていたのが今朝までの事で。 何故こんな事になっているのか。 「なんでこんなことになってるんだろう、って思ってる顔だね。」 軽やかな声が浴室に響く。 思わず息をつめた、相手の手に握られている剃刀が、これ以上なく恐ろしい。 「もしかして、家の中では喋らないように言い含められてた?あるよね、わかるわかる。いざ話していいって言われても、言うって何?って感じだよね。」 「ふ…へ。」 思わず声が漏れていた、目の前で剃刀を持って微笑む女が、私と同じことを受けたと言う。 「家にある本をひたすら盗み読んで頭の中で自分自身と会話して気を紛らわせたりだりとか、あ、文字読める?読めるかどうかで楽しさ変わるよ。まあ、裸になってタイルの上に転がってって言って素直に従う時点で推して知るべしって感じな家庭環境なんだろうけどさ。」 はい、終わり。 という声と共に足首が解放された。 傷跡の凹凸が残る手足から、きれいに毛がそり落とされて少しばかり肌の白さが増している。 残ったボディーソープが洗い流されるのを感じながら、ついそう思った。 「背中は剃ったし腕も剃ったし、とりあえずこれでいいか。とりあえず湯船浸かって、上がったら髪の毛切りそろえるよ。」 腕を引かれ、湯船に入るよう促される。 ごゆっくりと言いながらすりガラスのドアの向こうに出て行った彼女が、熱にうなされる中看病してくれていた事に違いはない、違いないのだが何が目的なのかさっぱりわからない。 湯の温かさでは綻ぶことのない体の緊張が、時間の経過を忘れさせる。 外の彼女が様子を見に来るまで、動くこともできず湯の中に座り込んでいた。 シャキリ サリリ コツ プツプツ 伸ばし放題の髪を、白い指が掬っては切りそろえていく。 目を覆うようにしていた前髪を一掃し、背中まであった髪を短く肩口で切りそろえられる。 淀みない動き、とは言いずらい。時折後ろから「こんなもんかな」「おっと」「いけるいける」なんて独り言が聞こえては、ふらふらと鋏が泳ぐ。 力みっぱなしの肩を気にすることなく首元に鋏が入り、チャキチャキと切りそろえられていく。 「この耳は誰から~?」 「……。」 外耳に走る切れ込みのような傷が撫でられた。 姉が付けたものだ、姉は執拗に顔を狙ってくる人だった。大学受験時の剣幕は、それこそ殺されてしまうのではないかと日々思ったものだ。 「やっぱり鋏?」 「……はぃ。」 「ふーん。」 聞いただけだとでも言うように、耳の周りにも鋏が舞う。 ふと、着せ替え人形という単語が浮かんだ。彼女が私を買ったのか、それともこれから売るために容姿を整える作業なのだろうか。 その時、微かにドアが開く音がした。 このマンションに出入りする人間は、彼女を除いて彼一人だ。滑るように静かな足音が部屋に入ってくる。 「楽しいかと思ってやってみたけど、そう楽しいもんじゃないね、人ひとり拵えるのって。」 「病み上がりの人間着せ替え人形にしてるのかい。」 呆れるような、咎めるような、それでいて怒っていない声だった。 「ハチは道徳的だね。」 「こんな間者の真似事やっといて道徳的もくそもないよ。」 私が買い取られた時、運転席にいたのもこの男だった。その後この男はどこかへ出かけて行っていたが、もしかして私の売り込みにでも行っていたのだろうか。 知らず身構えた私に目ざとく気付いたらしい男は、なだめるように「ただの仕事に出てただけだよ。」と、いたって静かな声で告げた。 「白と相原さんは、ただここでじっとしていてくれればいい。カーテンを閉めて、外に出ずに、ただ事が終わるまでここに居ればいいだけだよ。」 「はい、出来た。」 シャキン、と軽い音とともに鋏が下げられる。 「せいぜい私の話し相手になってよ、私の戯れにする話をただ聞いてくれるだけでいい。簡単な仕事でしょ。」 パサついた髪をするりするりと撫で上げる彼女、ツクモは、中身の読めない目で笑いながら言う。 「あらためて、よろしく紗枝。」
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