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3章「知らない方が円滑に物事が進むこともあると思うんだわ。」
ソファに絞殺死体が座っていた。
薄暗い午前5時、探偵社のリビングでどういう訳か知人の死体と向き合っている。
首には絞められた手形が浮かんでおり、青白い顔は力なく伏せられて、まるで萎れた花のよう。
一瞬で滝のような汗がどっと流れた、人間驚きすぎると声も出ないものである。
寝不足の脳が見せる幻覚じゃないかと近づいてみるがどうあがいても現実、肉体がそこに在る。
ひぃひぃと必要以上に空気を吸い込む肩が跳ね、破裂しそうな心臓をよそに頭はおかしな方向に思考を進める。
神よ、さして信仰もしていない神よ、何故私にこんな試練をお与えになるのでしょう。
確かに褒められた人間ではございません、努力すべきところも多いのでしょう、それにしたってあんまりではありませんか。何故旧知の仲の死体の第一発見者に私がならなくてはならないのか。
「ぉはよう。」
混乱した頭に、死人の声が響く。しおれた花が面を上げる。
「生きていたのか!ハチや生きていたのかい!」
「落ち着いて。」
思わず駆け寄り掴みかかれば、冷え切った体が肌に痛い。かすれた声で「勝手に殺すな。」と小言が吐かれる。いや流石に落ち着いていられないと思う。
「今の一瞬で寿命5年縮んだ。」
「ただでさえ少なそうな寿命をすまんね。」
悪びれもなく言う腕の中の男は、冗談を言う程度には元気らしい。
死人じみた顔色をしておいて元気というのもどうかと思うが。
「探偵社に来るなら連絡しろってあれほど。というか、連絡できないならせめて布団引っ張り出して寝なよ、和室に布団あるの知ってるでしょ。」
「疲れてたんだよ。」
「疲れるで済むのかこれ。首絞めプレイはいいけどその位置は死ぬ位置だと思うよ、私。」
「酷い誤解だ。」
ハチはがたついた指で悩まし気に眉間を撫で上げ、深くため息を手のひらに吐き出している。
「昨日は柘植さんのお付きで立食パーティーとかに行ったんじゃなかったっけ。」
「そう、ホテルで待機してたけどな。」
「立食パーティーと首絞めが結びつかなかったもんで。」
「だからってその方面に行くのもどうかと思う。」
ごもっともだ、死んでいないからって殺人事件でないとも限らない、殺人未遂かもしれない。
「それで、誰にやられたの。」
「柘植さん。」
「ねえ。」
何も間違っていないのでは?という視線をしり目に、ぽそりとおなかがすいたとハチこと八尾は呟いた。
そう聞けば、動かずには居られないのが料理人の性だ。ましてこの無気力はそうそう自分から欲求を言うことが無い、今応えずしていつ応える。
「今朝ごはんつくるから待ってな。それとも、布団敷こうか。」
「いや、座っとく。眠っちゃいそうだ。」
少しでも眠ったほうがいいんじゃないか。そう思ったが、口はつぐんでおいた。少なくとも私からは言われたくないだろう。
鮭の切り身を買っておいたので塩焼きにしよう。野菜室を見れば人参に大根、ゴボウ。これで味噌汁かなあと適当に漁っていると、木枯らしのような掠れた声がすらりと通った。
「なあ、白の事、どうなってる。」
ハチが白の事について尋ねてくるとは。
思わず冷蔵庫を開けたまま、ハチを見やる。
「珍しいね、聞いてくるなんて。」
「なんとなく。何か手がかりとかあったのかと思って。」
とりあえず冷蔵庫を閉め、ハチと向き直る。気だるげに半分閉じた瞼は、眠気によるものか、違うのか。
「生家の連絡先は調べたよ、特にこれと言った情報はもらえなかったけど。私の事件のあった日に白と私を乗せたタクシーの運転手も見つけた。でもそれくらいかな。」
じりじりと下腹部が引き攣れるような錯覚を起こす。伽藍堂になった下腹部のせいで、いろいろと苦労した。
「白の居場所は依然わからず、無事かどうかもわかってない。」
「……そうか。ありがとう。」
伏せられていた瞼が、完全に閉じられる。
あまり聞いて楽しい話ではないだろう、白とハチは案外つるんで居ることが多かった、その様を高校の時によく見ていた身としては心苦しいものだ。
「好物作ってたら、ふらっと出てきてくれないもんかねえ。」
「白の事動物かなんかだと思ってんだろ。」
背後からの苦言を黙殺し、鍋に水をそそぐ。
出てきてくれるものなら、いつだって好物を作って待つ所存なのに。
「そういえば、黛は。」
「まだ寝てるんじゃないかな、昨日遅くに人が来てたから。」
土から掘ったままの形の大根を、適当に切り分け刃を皮に滑らせる。
修業時代にさんざやらされたなあ桂剥き、といつも以上に霞がかった頭で思い起こす。
修業時代のまま料理人生活は終わりを告げたけども。
大根を短冊に、ゴボウをささがきに、人参はイチョウ。鍋の中に放り込もうとして、まだ湯を沸かしてもいないことに気付いた。
「私も焼きがまわったなあ。」
思わずつぶやいた声に、応える声が聞こえない。
おや、と思って振り返ればハチが眠りに落ちていた。
「結局眠ってるじゃんねぇ。」
鍋を火にかけ、沸くまでの間にリビングに隣接された和室の押し入れから毛布を引っ張り出す。
そっと横にして毛布を掛けてやれば、起きることなく寝息を立て続けていた。
「ハチ来てたんだ。」
「おはよう穂積。」
「おはよう烏羽。」
珍しく隈を浮かべた黛が静かにリビングの入り口に立っている。
どこか生気を欠いた顔、よほど疲れているらしい。
「ずいぶん眠そうだね、珍しい。」
「少し、立て込んだ事案があってね。」
「立て込んだ事案、ね。」
そう探るように聞いてみても、穂積の薄らとした微笑みは崩れない。何も語る気は無いらしい。
「何か手伝うことある?」
「特に大丈夫、ただ後でハチの事診てやって。喉にあざ出来てるから。」
喉に?という疑問の声と、鍋の吹く音が届くのは同時だった。
カチリとガスコンロの火を止める。
とたん眩暈が眉間全体に広がった、眉間を引き絞るような痛みを感じて座り込む。
「烏羽!」
慌てて黛が駆け寄ってきた、大丈夫というふうに手を振れば見えぬが背を案ずるように撫でられる。
「烏羽、昨日は眠れてたでしょう。それでもやっぱり駄目そうなの。」
「長々不眠症やってると、なかなか回復しないのかもね。ごめんよ、ちょっとしたら引っ込むと思うからさ。」
「烏羽無理しすぎなんだよ、眠らなくてもいいから少し横になってきなって。」
キリキリと眉間が締め上げられる。嫌に顔に上る血を下ろすように、静かに「ごめんね。」とだけ搾りだした。
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