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あれからしばらく――。
楠木は、どういうわけか俺の部屋に来なくなった。
会社で声をかけても、前みたいに俺を頼ってくれない。
(あー、どこいった俺のやる気……)
自販機でパックのいちごミルクを買い、俺はこの時間すいている1階のロビーに向かった。
ヤル気なんてものはもともとほんのちょっとしかないんだが、楠木に構ってもらえないとなると気持ちが安定しない。
好きなはずの仕事にも集中できなかった。
あいつと出会う前は俺、どうやって生きて仕事してたんだろ。
あいつとそういう仲になってまだ2カ月ってとこなのに。
恋ってやつは恐ろしいな。
突然降ってきて、人の心も体も全部作り替えてしまう。
そんな魔法は俺の知る限り、どのプログラミング言語にも存在しなかった。
ああ、本当に意味が分からん。
デスクに戻る気がしなくて、ロビーでだらだらといちごミルクのストローを噛んでいると、受付の方から聞き捨てならない会話が聞こえてきた。
「制作部にも可愛い新人くんがいるよね?」
「楠木くん?」
「そう、その子! なんかフワフワした感じがよくない?」
(ちょっと待ったー! 俺の楠木にちょっかい出そうとしているやつは誰だよ!?)
見ると受付嬢たちが、そばのベンチにいる俺に気づかずに楽しそうに会話していた。
そこへ交替で来たらしい3人目が加わる。
「楠木くん? フリーだってよ」
「ホントに?」
「うん、本人から聞いた!」
「は、なんだそれは! 俺というものがありながら……」
思わず口に出して言うと、女3人がぎょっとした顔でこっちを見た。
「氷室さん、いたんですか……」
一応俺の顔と名前も知っているらしい。
「仲いいのかなと思ってましたけど、もしかして楠木くんと付き合ってます?」
「だったらなんなんだよ」
「ちょっ、やめなよユカちゃん……」
質問してきた女のそでを、別のひとりが引っ張った。
周りが俺を変人扱いしているのは知っていたが、話しかけるのも危ないと思っているのか。
ともかく女の目がこっちを向いたままだったので、俺は言葉を続ける。
「いや、付き合おうとかは言ってないけどな」
「だったらそれ、付き合ってませんよ」
「えっ? 付き合ってないのか」
いちごミルクのパックが、手の中でペコンと潰れた。
「氷室さん! こぼれてますこぼれてます!」
女が箱ティッシュを手に、受付カウンターから飛び出してきた。
意外と優しい。
「楠木くんのこと好きなんですか?」
「好きだよ、悪かったな」
「可愛いですもんね?」
「可愛いっていうかさあ……」
いちごミルクで濡れた手元を拭かれながら、俺は考える。
可愛いとか可愛くないとか、そんな単純な話じゃないんだ。
あいつに触れてなきゃ息ができない。
こっちを見てくれなきゃ、自分が空虚だ。
どうしたらあいつは俺のことをちゃんと見てくれるんだろうか。
「好きって言うべきなのか」
「えっ、言うんですか?」
俺のつぶやきに、女がまた質問を返した。
「言えるかな」
「えええ、頑張ってくださいよー!」
名前も知らない女に励まされ、俺はふうっと息をつく。
なんかまた社内でウワサされそうな気がするけれど、そんなのはこの際どうでもよかった。
あいつを、楠木直哉を振り向かせたい。
あわよくば自分だけのものにしたい。
ずっとモヤモヤしていた気持ちが、ひとつの目的を持って形になる。
恋のソースコードを、いや……恋を叶えるソースコードを俺は知りたい。
入社4年目の5月。初めての恋はまだ始まったばかりだった――。
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