第3話

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第3話

そんな先輩との関係が大きく変わってしまったあの日。 忘れもしない、制作部に配属されて14日目の金曜のことだった。 まだ雑用しか任されていなかった僕は、時間を持て余していた。 (このパンダのマグカップ、氷室先輩のだ) 給湯室の流しに置きっぱなしになっていたカップを洗う。 先輩は目がいいくせにそういうことには無頓着らしく、カップの内側には茶渋がびっしりついていた。 (僕、仕事じゃ役に立ててないもんな。せめて先輩たちには気持ちよくお茶を飲んでもらおう) 金だわしで磨いて茶渋をこそげ落とす。 そんな時、狭い給湯室に影が差した。 「楠木か、お疲れ」 「あっ、氷室先輩!」 先輩は気だるげに片手を上げると、そのまま給湯室の前の廊下を行ってしまう。 (鞄持ってたけど、退社するのかな?) 流しの水を弾く腕時計はまだ、退社時間の30分前を指していた。 (どうしたんだろう、体調不良で早退とか? 目の下にクマができてたし) 僕は不可解な思いを抱いたまま、カップを洗い終えてフロアへ戻った。 それから10分後。 「マジかよ、このタイミングでこんなデカいバグとか!」 隣のチームがにわかに騒がしくなる。 聞こえてくる話から察するに、納期ギリギリで大きな問題が発覚したらしい。 しかも重要な得意先からの案件らしく。 金曜夕方のオフィスが、一気に殺気だったムードに包まれた。 「これ、仕様書から見直さなきゃどうにもならんぞ!」 「けどこんなの、どう直したらいいのか」 バグへの対応は、かなりの難題らしい。 僕は戸惑いつつも、どこか他人事で隣のチームの状況を見守っていた。 ところが――。 「氷室を投入しろ、あいつならなんとかできんだろ! ってかあいつどこいった!?」 「それが、もう帰っちゃったみたいです」 「はあ? まだ定時前だろ、連れ戻せ!」 そこでどういうわけか、隣のチームのリーダーが僕の方を向く。 「おい、そこの新人、お前氷室と同じ寮だろ! 首に縄つけてでも引っ張ってこい!」 「へえっ? 僕ですか!?」 確かに僕はこの4月から社内の独身寮に住み始め、同じ寮には氷室先輩もいた。 同じく状況を見守っていた、直属の上司からも大きく頷かれる。 「行って来い! 氷室と一緒じゃなきゃお前、戻ってこなくていいからな」 「それ、どういう意味で言ってます?」 「言葉通りだ」 お遣いもできない新人は要らない、ということらしい。 僕はスマホと鍵だけつかんで、オフィスから徒歩5分の寮へ駆け戻った。
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