番外編 キスのソースコードを教えてください

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番外編 キスのソースコードを教えてください

「ふあぁ、気持ちいい~」 湯気に満たされた高い天井に、僕のひとり言が反響した。 大学を卒業し、システム制作会社に入社して2カ月。 社員寮での生活に慣れてきた僕は、近所の銭湯を開拓しようと思い立ち、ここへ来ていた。 (古めかしい雰囲気だけど、そんな混んでないしいいかもな) 寮にも大きなお風呂があるけれど、共同風呂だからゆっくりできないし気を遣う。 それに比べれば、銭湯は天国だ。 日曜午後3時。僕は広々とした浴槽で手足を伸ばし、それから併設されているサウナルームへ向かった。 * 木戸を押して中を覗くと、そこには誰もいなかった。 (やった、貸し切り状態だ) 熱気に歪んで見える空気の向こう。オレンジ色の裸電球が、薄暗い空間を照らしている。 僕はタオルを手に進んでいき、奥のすのこの上に座った。 それからしばらくして。 熱気に頭がぼんやりしかけていたところで、サウナルームの木戸が外側から開かれた。 そちらを見ると、背が高く細身のシルエットが目に映る。 (地元のおじいさんたちくらいしかいないのかと思ってたけど、若い人もいたんだ) そんなふうに思った、次の瞬間。 (――えっ!?) その場で腰が浮き上がりそうになった。 (えええ、氷室先輩!?) 彼は同じ寮に住む会社の先輩であり、まさに昨日、お互いに好きだと言い合った相手だった。 つまり僕らは恋人同士……っていうことになるのかな、たぶん。 告白されて流れでセックスして、それから1日。 顔を合わせるのも気恥ずかしいのに、こんな薄暗い場所で、しかもお互いに裸だ。 (どど、どうしよう……) 動揺してしまい、僕はその場に固まってしまった。 何してるんだろう、普通に挨拶すればいいのに。 氷室先輩が、ゆったりとした動作でこっちへ来る。 裸の腰のラインが、思いのほか細く感じられた。 (こうみると意外に線が細いんだなあ、ベッドでは結構ガツガツ来るのに) 余計なことを考え、ますます意識してしまう。 「ああ、誰かと思えば」 先輩は隣に座ってきて、横目で僕を見てクスリと笑った。 「え、と……先輩もここ来るんですか?」 「たまに」 「そうだったんですか」 裸の先輩をまじまじと見るわけにもいかず、なんとなく手元に目を落とす。 いや、ベッドで裸を見たことはあるけど。それとこれとは別っていうか……。 動揺してしまって思考が定まらない。 「こんなところで会うなんてな」 先輩が後ろに手を突いて、その拍子にお互いのひざの辺りが触れ合った。 「……あっ」 つい声が出てしまう。 「楠木、俺たちさ」 思わず逃げた僕のひざに、先輩の逆の手が伸びてきた。 「な、なんですか……」 「ふと思ったんだけどさ。俺たち、やることやっておいて、キスはしてないよな?」 (なんでその話を今!?) 告白前からなんとなく体の関係を結んでいた僕たちは、そういうステップを踏んでいなかった。 けど、キスなんてむしろ気恥ずかしい。 先輩に片思いしていた僕としては、想いがあふれてしまいそうで怖くもあった。 それなのに今、ほんの少し動けば簡単にキスできてしまいそうな距離に先輩はいる。 (ちょっと待って、さすがに心の準備が……) 「楠木……」 その先を聞くまでもなく、僕は慌てて止めに入った。 「ダメですよ! ここは銭湯で……」 「でも誰も見てない」 「いやいや、誰か来たらどうするんですか!」 サウナで男同士、キスなんかしてるところを見られたら、地元のおじいさんたちが卒倒する。 それに先輩は我慢できるんだろうか。 とっさに先輩の、ひざの上のタオルに目が行った。 この人は基本的に、性欲というものを放し飼いにしている。 こういう人に、安易にキスなんかさせちゃいけないと思う。 どう考えても危険だ……! 「楠木」 意思を持った手のひらが、僕のうなじを後ろからつかむ。 (マズい!) 逃げようと思ったけれど遅かった。 先輩の顎を伝った汗が、ぽたぽたと僕の胸元に落ちてくる。 びっしょりと濡れた額が合わさって……――。 (あああああ……) 世界がぐるりと反転する。 「――おいっ、楠木!? コラ~!!」 (え、なにこれ……) * 気づいた時には僕は、脱衣所のベンチに寝かされていた。 (えーと、どうしてここにいるんだっけ?) 「大丈夫か? ほら水」 ジャージ姿の先輩が、ペットボトルの水を差し出してくる。 サウナで気分が悪くなって先輩に連れ出された、そんな記憶がよみがえった。 「よかった、顔色は悪くないみたいだ」 「すみません。僕、サウナにのぼせて……」 そうだ、僕は先輩が来るだいぶ前からサウナルームにいたんだ。 そりゃあのぼせもするはずだ。 「ごめんなさい、心配かけて」 僕がベンチの上から上半身を起こすと、先輩が空いた隣に座ってきた。 僕だけ裸で、ちょっとキマリが悪い。 でもすぐには立てなくて、僕はうつむいたまま水を飲む。 すると隣から、意外な言葉が聞こえてきた。 「まあいい、可愛いから許……」 (え、可愛いって言った?) ふいに言われた言葉にドキッとした。 「あの、今なんて」 「いやその……ともかく俺にも責任が」 「責任?」 「キスしようとしたから」 (そこは反省してるんだ?) 濡れ髪を掻き上げながら先輩も、めずらしくきまり悪そうにしてる。 普段なかなか見せないその表情を前に、なんだか少し嬉しくなってしまった。 「先輩、あんな場所でダメですよ」 僕は笑いながら言う。 「あんな場所だから、ちょっかい出したくなった」 先輩も笑って応えた。 「ちょっと、確信犯じゃないですか!」 反省してるのかと思ったら、案外そうでもないらしい。困った人だ。 けどキスは、あとの楽しみに取っておいてもいいのかもしれない。 なぜなら僕らの恋は、まだ始まったばかりなのだから。
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