五条の大橋で鬼退治!?

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 一方、良房の帰る先、染殿の北の御方・潔姫(きよひめ)は気が気ではない。  そもそも、母を早くに亡くした潔姫には後ろ盾になるべき人がいない。  自分に降嫁を命じられた理由は、母がいないことと、そもそもその母の身分が低いことだと潔姫は思った。  後見のない帝の娘になんの価値があろうか。  しかも、降嫁の直後に帝は譲位された。  確かに、今上は万事上皇に相談してお決めになると聞く。臣下に降った娘を、上皇が後見できるわけがない。  内親王ならば伊勢や賀茂で神に仕えることもできるが、臣下に降った身ではそういうわけにはいかない。  潔姫には「夫」しか頼れる相手がいない。潔姫はその弱い立場をよく知っていた。  婿取りは、日中の潔姫の裳着の儀式から始まった。  最後に髪を結い上げてくれた初対面の青年に、潔姫は大変好感を持った。  鼻をくすぐる香りも好ましく、この人が父帝が自らお選びになった背の君で良かったと思った。  これが夫となる人との初めての対面である。  気に入っていただけただろうか。  潔姫はちらちらと気になって夫を見上げると、夫は顔をほころばせた。  笑った顔も整っていて、実に好ましいお人だ。  しかし、夜になると変わった。  婿殿に無理強いされても拒絶してはならない、痛くても我慢するのだ、と散々乳母に言われつけていた。我慢するのだ、我慢するのだ、と法華経を唱えたが、いざ御簾の中に婿殿が入ってくると身を固くして体を反らせてしまった。  良房は、身を固くした潔姫に向かって、「機が熟すまで待ちます」と言い、御簾の外で眠った。  次の晩も良房が御簾の外で眠ろうとするので、潔姫は自ら御簾の中に招いた。ただ、触られると手の大きさにびっくりした。  やはり、何もない。  日中は仲の良いお兄さんだ。  夜は必ず帰ってくる。  肩から背中に手を回されて抱き寄せられて寝るのは嫌いではない。  ただそれだけだ。  済まされるべきことが済まされていないこと、それこそが潔姫の心配の元である。  良房は藤原氏の中でも最も新興と言える北家の、それも次男である。  父帝とは異なり、何人もの妻妾を得るわけではないだろう。  一方、良房の父の右大臣は艶福家である。  こちらにも子が多く、側室や愛妾が多数いると聞いている。  この背の君にも今後、側室の一人や二人、愛妾の二人や三人ができてもしょうがない。そういうものだと覚悟はしていた。  済むべきことが済まされていない。ならば、どちらかにどなたかがおられるのかもしれない。  その予想に反して、良房は毎晩きちんと帰ってくるし、どこかに女がいる気配がない。おまけに雨あられと降る縁談に全て、「皇女がおられますゆえ」と断った。  面倒だったか、その相手の娘が気に入らないのだろう。  断る口実にされたのは事実だが、「待ちます」と言った言葉通り、大切にされているのではないかとも思った。  それが、この連日、背の君はこれまでにないほど深夜遅くに帰ってくる。  帰って来れば上機嫌だ。  酒の匂いまでする。  潔姫は好きでもない酒の匂いを嗅がされて不快だった。  誰が我が背の君に酒を飲ませたのか。 「姫さま、昨夜は三晩目でございますまいか」  乳母子が潔姫だけに聞こえるように言った。  潔姫は全身の毛という毛が逆立つような気がした。  昨夜後を追わせた家人(けにん)からは、「五条の小野」に良房が入ったと報告が上がった。  小野といえば、小野妹子を祖にする、れっきとした名門である。しかも、当代は父帝のお気に入りだ。  三年ほど前に陸奥から帰任し、父帝がわざわざ嵯峨野の離宮に当代と長男を呼ぶほどの気に入りようだ。  小野の長男はその時に帝に弓馬の士になってしまったかと嘆かれて、一念発起してすぐさま次の文章生試に及第してみせた話は誰かから聞かされた。その文章生と良房は子どもの頃に親しくしていたという話も良房本人から聞いた。  そして、幼かった妹が成長して、実に美しいという噂がある。何度か染殿に訪れてくれた、良房の妹の順子もまた美しい童女だが、小野の姫はこの順子よりも美しいのだろうか。  兄の縁から妹に婿取られたのだろう。藤原北家の次男坊の側室にはもったいないほどの相手ではないか。  上皇の覚えのめでたい小野氏か。ならば、上皇の許しもあるかもしれない。  潔姫は背筋が凍った。  三晩目か四晩目に、所顕(ところあらわし)をして婿取りの儀式が終わる。それまでは知られていても公然の秘密とするのが常である。  潔姫の場合は、冷然院(れいぜんいん)に良房が通う形で婿取りが行われた。  しかし、帝の持ち物の冷然院に良房が住まうわけにはいかず、三晩目に良房は冷然院で朝まで過ごし、その後に二人は新築の染殿に移った。  従五位下の位職はあっても、官職がない良房は、ただの「大夫(たいふ)」である。  官職がないゆえに宿直(とのい)はなく、毎晩きちんきちんと帰ってきていたのに、この三晩は夜も遅くになってから帰ってきた。  四晩目である。  所顕をする晩ならば新郎が本邸に帰宅することはない。しかし、良房には「皇女」が正妻として存在する。その「皇女」に遠慮して夜遅くに帰宅することはあるだろうか。  潔姫は薄氷の上に立っていることを改めて自覚した。  今夜、背の君は帰ってくるだろうか。  なんと言ってやればいいのだろうか。  激しく問い詰めれば、反発されて、この染殿に捨て置かれるだろうか。  潔姫は胸をぎゅっと掴まれるようで苦しい。  良房は夜遅くに、やはり上機嫌で帰ってきた。 「背の君、何か仰せになることはございませんの?」  潔姫は良房にそっと聞いた。 「こんな夜遅くまで起きて我を待っていることはないのですよ。いらっしゃい」  良房はいつものように潔姫の肩を抱き寄せ、スヤスヤと眠った。  潔姫は今夜も良房から漂う酒の匂いに顔をしかめた。  翌日、潔姫は意を決した。  日中、五条の小野の邸宅の場所を確かめた。  どのみち、良房は日暮れ前に小野に入ると踏んだ。  入ったところで問い詰めてみようか。  それよりも、潔姫は良房の寵愛を奪った小野の娘を見てみたい。 「さぞやお美しいお方なのだろう」  
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