五条の大橋で鬼退治!?

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 皇女・潔姫にはいくつか特技がある。  一つが染色である。  染色はこの時代の貴婦人に必要とされた教養の一つだ。  潔姫はあまたおられる皇女の中で最も染色に優れていた。潔姫が降嫁させる皇女に選ばれた最大の理由が染色の技術である。 「潔姫ならば、皇女の出自を鼻にかけることなく、染色の技で夫を支えることができよう」  まだ帝位にあった上皇は、潔姫が「父帝のために」と作った離宮用の束帯を愛でながら、皇后橘氏に話した。  その染色の知識に付随するように、潔姫には何を服用するとどうなるかの知識がついた。  つまり、潔姫の二つ目の特技とは薬の知識である。  潔姫は夕餉に薬を仕込んで、家人を眠らせた。  良房の直衣で一番目立たないものを纏った。髪の毛はもともと玉髻で、上にあげていたので、(かとり)頭巾(ときん)を被ってみると、なんとかなったと潔姫は思った。  潔姫は馬に跨がって小野の邸宅に向かった。  小野の門番には夕闇の中で低めの声で「染殿から来た。殿がおられるはず」と言うと、すんなりと馬を預けることができた。  どうやら背の君は到着したばかりらしい。  染殿も小野の邸宅も一町しか使わない。したがって、その内部の広さも建物の具合もそう大して変わらない。  確かに、染殿の方がはるかに豪華ではあったが。  どこかから美しい笛の音色が聞こえた。  潔姫は小野の家人・家女房を見かけるたびに「染殿から来た」と言い、その度に指さされる方向に歩いた。  ここまで一つも嘘は言っていない。次第に笛の音色が大きくなる。合わせるように琴の音色も聞こえるようになった。潔姫は拍子に合わせて堂々と歩いた。  邸内を歩いているうちにすっかりと日は暮れて、小野の家人たちが大殿油(おおとなぶら)を灯して歩くようになった。闇の中に揺らめく火の光は美しいものである。潔姫はその一つに吸い寄せられた。  大きな虫が火の中に飛び込み、じゅわっと音がして潔姫をびくっとさせた。   潔姫は改めて自らの立場の弱さを痛感した。  この、小野の邸宅ですら夜に灯す油をふんだんに使う。  確かに潔姫は皇女として生まれた。  しかし、帝は母方の後見を得られない子女には節制を求めた。  日の出と共に目覚め、日の入りと共に眠る。そうすることで貴重な夜の油を使わずにすむ。冷然院でも日が暮れてから起きていることは、あの婿取りの晩くらいのもので滅多になかった。  それに対して、閑院の右大臣の翼の下にある染殿では、取り仕切る良房の乳母も鷹揚で、潔姫に対してもそのような節制を求めない。  それは右大臣家だからだと思ったが、小野のような名門とは言っても中流貴族でもそうなのか。  この先に、小野の娘がいる。  そう思うと、潔姫の心臓が口から飛び出しそうになってくる。  飛んで火に入る夏の虫とは、誰のことだろうか。 「若殿がこの先には誰も入るなとおっしゃっておられましたが」  家女房が簀の子縁を回って歩く潔姫を見とがめたが、「その若殿に染殿から呼ばれた」と答えれば通された。  なぁにが若殿だ。  小野では、我が背の君を若殿と呼ぶのか。  潔姫は先程までの怯えをかなぐり捨てて、トストストスと歩いた。  そのままの勢いで覗き込むと、室内はやはりあくまで簡素だ。  本当にこんなところに姫君がいるのだろうか。家女房の姿も見当たらない。  特に織に凝ったわけでもなさそうな、白い几帳の奥にちらちらと揺れる光が見え、几帳に頭巾の人ともう一人、女らしき影が映った。  今風に髷も作らない女だ。時代に取り残されたようなところのある冷然院で育った潔姫は、裳着をすませれば髷を作るものだと思っていた。けれど、順子が「おねえさま、その髷は重くありませんか?」と重たい髷を作りたくないと言うので調べさせると、最近の若い貴族の娘は髷を作らない人が増えてきたらしい。そう聞いても、潔姫は髷を解く気にはどうしてもならないが。  流行りに敏感な娘と、几帳の中でお会いになるの。  本当にこの二人の関係は深いところまで行ってしまった。  潔姫はきっと唇を噛んだ。  女らしい影の吹くたいそう美しい横笛の音色に、男らしい影の琴が合わさり、合奏が始まった。  あの笛の音色は、この姫君のものだったのか。あの琴は、まさか、背の、君。  潔姫は不快のあまり、柱を叩いた。   合奏がその瞬間に止まって、奥から衣擦れと男の声がした。 「なんだ」  確かに、我が背の君の声だ。  琴を弾いていただいたことはないのに。  この姫は。  質素ではあるが、夜に油を使える程度には裕福な家に育った小野の姫君。  対して、夜に油を使うことすら許されず、大した後見もない、皇女(しかも臣籍降下済み)。  美しく横笛を吹き、背の君に琴を弾いてもらう小野の姫君。  対して、笛もまともに吹けず、琴を弾いてもらったこともない、皇女(しかも臣籍降下済み)。  北の御方と呼ばれるとはいえ、お手もつけられないこの身は、背の君の訪れもなくなり、染殿の一角で朽ちていくだけであろう。  潔姫はその場から動けなくなり、ボト、ボトと涙が床に落ちた。  
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