24人が本棚に入れています
本棚に追加
弘仁十四年(八二三年)の夏のことである。
ひょろりとした色白の青年が単身、夕暮れの朱雀大路をポツポツと歩いていた。
退屈だ。
退屈だー!と朱雀大路のど真ん中で叫べば、ささやかなその身分を失いかねないし、何よりも朱雀院におられる上皇をがっかりさせてしまう。
これ以上、上皇の玉顔を自分のために曇らせてはならない。
叫ぶ代わりに、はぁーっと齢十九の青年は深くため息をつき、頭をふりふり、ポツポツと歩いた。
刺激が欲しいんだ、刺激が。
その様子は端から見れば、恋に破れでもした良家の子弟が、ぼんやりと朱雀大路に迷い出たようでもある。
青年の深い緑色の直衣は六位の位職を示す。貴族、殿上人と呼ばれるのは、五位からなので、青年は未だ地下である。しかし、朱雀大路を行き交う人の中ならば、高い身分と言えた。
背が高く、色白で六位の青年は、朱雀大路で非常に目立った。
むしろ、悪目立ちしたと言って良い。
柄の悪い連中が青年に目をつけてしまった。
実に不運である。
あたりを見ても、本来良家の子弟に随行すべき、随身や従者らしき者の気配はない。つまり、六位の下級官吏が単身で歩いているだけだ。青年が腰にさした太刀は飾り太刀に違いない。
下級官吏といえども、市井の人々と比べれば大変豊かな生活をしているのである。少し脅かしつけてやれば、怯えて何か、身につけた石帯、勺や笛なども落とすだろう。
恐れるに足りぬ、下級官吏。
そう踏んだ連中は、この、六尺を超える長身の青年の後をつけた。
実に不運である。
誰が?
青年ではない。
この連中のことだ。
確かに、この青年・小野篁は、れっきとした貴族の息子である。
小野氏はかつて聖徳太子の命により、隋に派遣された遣隋大使を二度も務めた小野妹子を祖に持つ名門だ。
確かに近年では、小野氏は新興の藤原氏や橘氏に押され気味だが、新帝の即位に伴い、「大伴」から名を改めた伴氏、そして紀氏と並ぶ、古来からの名門であることには変わらない。
ただし、従五位下からを殿上人、貴族と呼ぶのに対し、篁は未だ六位の地下である。しかも、文官武官と分けるならば、明らかに文官に分類される文章生である。
悪い連中の踏んだ通り、確かに篁は下級官吏に過ぎず、腰の太刀は飾りである。
だが、人を見る目がないとはこのことだ。
篁は陸奥の荒野で育ち、今は朱雀院におられる上皇が帝位にあった頃には、上皇に「弓馬の士」と呼ばれた男である。
篁は湿度を含んで重たい空気の中、ぼんやりと歩きながら、父に従って少年時代を過ごした陸奥を懐かしんでいた。
陸奥の冷たく透き通る空気を吸いたい。
あの大地をまた人馬一体になって駆けまわりたい。
帰任後、父・小野岑守に伴われて、篁も嵯峨野の離宮に当時の帝と当時の皇后橘氏に拝謁した。
皇后橘氏は、ありがたくも篁にもお言葉をかけられた。
「ところで篁はどのように陸奥で過ごしたのです」
「馬を駆り、鷹を射、狼を追いました」
元気よく答えたところで帝と皇后は顔を見合わせ、帝が目を丸くされた。
「…岑守のような父を持ちながら、篁は弓馬の士になってしまったのか」
陸奥は帝の父帝・桓武天皇の時代、征夷大将軍・坂上田村麻呂によって夷賊を討伐して数十年に満たない。篁の少年時代、陸奥は未だ未開の荒れた土地である。「武」が必要な土地である。
しかし、帝、すなわち平城京におられる兄の「平城の上皇」と区別するために、今はこの嵯峨野の離宮にちなんで「嵯峨の上皇」と呼ばれるこの帝は、「武」ではなく「文」を重んじられた。武力が必要だった時代から、桓武天皇がこの新都に名付けた通りの、「平安」の世を作るという決意の表れである。
この時代の文とは漢詩のことであり、また漢文のことである。
かつて帝は篁の父・小野岑守に「凌雲集」と名付けられた勅撰漢詩集の編纂に加わるように命じられるほど、岑守の漢詩の才能を愛しておられた。
当時、帝は、その岑守の帰任を心から待たれておられたのである。
幼年時代の篁も、不分なほど可愛がっていただいたという自覚がある。
なぜ、宮中ではなくこの嵯峨野の離宮に父が召されたのか。
元服して無位無官のこの身を帝にお目にかけるためには、宮中ではなく嵯峨野でなければならなかったのだ。
篁はあっという間にそれに気づき、雷に打たれたような心地がして、地にひれ伏した。
帝にご不快に思わせるわけにはいかない。
漢詩である。
漢詩といえば文章博士だ。
先年、帝は文章博士の位を従五位下まで引き上げておられ、その地位の向上と重要性を具体的に示された。武の時代から文の時代である。
まずは、文章生試に及第すれば帝は満足してくださるだろうか。
それを目標に半年ばかり過ごし、昨年の春に及第した。
及第すれば今度は文書生として、朝堂院の中の、永寧堂にある大学寮の中で一日中漢文とにらめっこの毎日である。
暇ではない。むしろ暇とは無縁の多忙な日々だ。
篁の書いた一文字が誰かの命を左右する可能性があることは、篁もよく知っている。胃がキリキリする。
また、まだまだ学ばねばならないことが山のようにあるのも承知の上である。
それもなお、篁の魂は叫ぶのだ。
退屈であると。
二十二歳の篁は刺激が欲しい。
陸奥の大地を馬で駆け回って焼けた肌は、京にいる間に白くなってしまった。
乗馬をするときには太ももで馬を締める。しかし、馬で遠出をすることはなくなり、太ももの筋肉もすっかり細くなってしまった。
弓を取ればどうなるだろうか。
陸奥にいた頃には飛ぶ鷹をも射落すこともできたが、今はどうだろう。
ああ、久しぶりに、体を動かしたい。
風の声を聞き、木々の間を歩きたい。
鹿を追って、野山を駆け回りたい。
こんな飾り太刀ではなく、狼や熊に手に慣れた蕨手刀一つで立ち向かう、あの陸奥が恋しい。
京のど真ん中では物騒極まりないことを思いながら、篁はポツポツ歩いているのである。
大変不運なことに、この青年の出自など、悪い連中は思いも寄らない。篁をつける連中は、篁がぼんやりとしながらも、行き交う誰かにぶつかりそうな、その寸前で身を翻して決してぶつからないことにまで観察が及ばなかった。
ただただ、間の抜けた下級官吏がフラフラと出歩いていると思って、篁の後をつけた。
高身長の篁が朱雀大路から横道に入るところを、浅い緋色の直衣を着た青年が牛車の上から見つけた。
篁の緑色の直衣が六位の位職を示すように、浅い緋色の直衣は五位の位職を示す。つまりこの青年は、六位の篁とは異なり、末位ではあるが立派な貴族である。
高いところから見れば、ぼんやりとした篁があまり良くない連中につけられていることは明白だった。
「まずい」
その若い貴族、藤原良房は従者に篁を追いかけさせ、自分も牛車が止まらぬうちに、牛車から飛び降り、従者を追いかけた。
間に合え。
間に合え。
こらえよ、篁。
二人が助太刀に入れば、人数は逆転するんだ。
子どもの頃の篁の運動神経は信頼できた。しかし、あれから何年になる。今は腰には飾り刀を吊るす文章生じゃないか。いや、我だって人のことは言えぬ。だが、二人助太刀に入れば、三対二。一対二よりも幾分も良いに違いない。
良房は若い貴族として乗馬、剣術、弓術を嗜む。もとより武で生きていく自自信はないし、そのつもりもない。
この緋色の直衣を見て逃げてくれれば一番良いと思いつつも、良房は腰から吊るした飾り太刀の柄を握った。鈍いとはいえ、金属である。叩けば痛い。
頼む。
堪えよ、篁。
太刀を抜いて横道に入った良房が見たのは、伸びきった二人のいかつい男と、埃を払っている篁、そして唖然とする従者の四人だった。
「た、篁?」
つるりと大汗をかいた良房の手から太刀が落ちた。その音で従者が我に返ったのか、慌てたように良房の太刀を拾い上げ、「殿」と差し出した。
「おう、良房?どうした?」
篁は、うーんと伸びをして肩をぐるりと回した。
「やはり体が鈍っているなあ」
鈍っている?体が?良房の目の前にいる旧友が見知らぬ男のように思えた。ゴホンと咳払いして心を落ち着かせ、ゆっくりと従者から太刀を受け取り、鞘に戻した。
普段、貴族は諱で呼び合うことはない。
特に、従五位下の浅い緋色の直衣を着た、れっきとした殿上人たる良房と、六位の深い緑色の直衣を着た地下人たる篁との間には、一階級とはいえ、大きな身分の差がある。
貴族か貴族ではないか、その違いは大きく、六位の地下人が殿上人の諱を呼び捨てにすることは、あり得ないことである。
だがこの篁と、二歳年下の良房の二人は、篁が父に従って陸奥に降るまで、一緒に転げ回るように育った仲だ。
篁が陸奥から戻ったときには、二人とも声変わりしてすでに元服していたが、二人だけに戻れば、諱で呼び合うような遠慮のない仲に戻る。
「腕の速度が遅すぎるなあ。これでは狼には負けてしまうし、熊にも間に合わない」
狼?熊?
まさか、狼や熊と戦うというのだろうか。
良房は「狼」「熊」という単語を聞かなかったことにした。
「篁を付け狙う奴らが見えたから、慌てて追いかけたんだ」
「ああ、こいつらか」
篁が足元に伸びた二人を見下ろした。
「つけられているのに気づいて横道に入ったのだが、良房には見えていたのか。ぼんやりと歩きすぎたかなあと反省している」
「反省って、なあ」
陸奥の山の中で鹿を狩り、狼に囲まれ、熊を倒した篁からすれば、都人の強盗の二人や三人など大したことなかった。
「こんな殺気を隠そうともしないんだから、そりゃ誰だってわかるだろうに」
良房は改めて倒れている二人を見た。
この肥え方を見ても、強盗で生計をたててきた猛者たちだろうに。
それを「殺気を隠さない」というのだから、自然の中で育った男というものは恐ろしいものである。
友をここまで変えるとは、陸奥という土地はどれだけの魑魅魍魎が巣食う土地なのであろうか。
良房は、山の中で鵺や狒々と戯れる篁の姿を想像したが、頭を振って思い直した。陸奥は戦の最前線なのだ。土着の言葉もなかなか通じぬ東人をいかに統治するのか。その中には共に狩をすることもあったのだろう。
「検非違使にでも引き渡すか」
良房が従者に検非違使を呼びに行かせていると、ふっとその本人、篁は消えてしまった。
篁は良房を置いて歩き出したことに気づいていない。
篁は無口である。
喋り始めれば口が回る良房だが、無口な篁相手に特に喋る方ではない。
二人は一緒にいても何も喋らないことはこれまでもよくあった。
またポツポツと篁が歩くと、青年のよく聞こえる耳は一つの噂を聞きつけた。
「おい、聞いたかい?あそこの五条の大橋」
「なんだいなんだい、五条の大橋が」
「鬼が出たんだと」
鬼か。
京の強盗など大したことなかった。
さすがに京で狼を追いかけまわすわけにもいくまい。
しかし、鬼。
陸奥でも会ったことのない鬼が、京にいるというのか。
それも、近所の五条の大橋。
体はまだ多少は動く。
ようやく、求めていた刺激が見つかった。
鬼退治といきましょうか。
篁はそこでようやく、隣に良房がいないことに気づいた。
最初のコメントを投稿しよう!