女の狂気

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★リリアン  深夜、リリアンは従者一人を連れて家を抜け出した。  彼女の家は不動産を扱っている。だから、ゼロスを一時監禁するための場所を提供するのは簡単だった。  手には水の瓶と、パンが入っている。  今日の早朝に目を覚ました。鍵をかけて閉じ込めておいたあいつも、そろそろ大いに反省しただろう。自分を振った男はあいつが唯一だった。年下で生意気だけど、妙に心配してくれたりもした。そういう中途半端な優しさと甘さを持っていたあいつに、一時でも惹かれたのも確かだった。  サディストのモニカや、自己中なジャクリーンは知らないが、リリアンはただあいつの心からの詫びがあればそれで水に流すつもりだ。それ以上なんて今更いらない。  ただ、一つ懸念もある。ベアトリスのことだ。  どうして突然接触してきたのか。ゼロスに多少なりとも恨みを残す子を集めて、それぞれ協力しろなんて。  それに、あのお腹。食べ過ぎだなんて言っていたけれど、リリアンにはそうは見えなかった。あれはまるで……  人通りのない西地区は一人で歩くには心細い。廃墟も多い古い西地区の一角はこの世に一人取り残されたような錯覚すら覚える。もしくは廃墟群に迷い込んだ気分だ。 「ほんと、不気味だわ」 「でしたら、このような時間に来なくても……」 「仕方がないでしょ、流石にこれ以上は放置できないんだから」  食べてないのは何とか出来るらしいが、飲まないのはまずい。リリアンは心からの謝罪が望みであって、最初から殺すつもりはないのだ。勿論建物の取り壊しも嘘。それっぽい家を選んだだけで、そんな予定はない。  だが、ベアトリスには違う、本当に取り壊し予定の家を教えた。  何を考えているかは分からない。突然『ゼロスを取り壊し予定の屋敷に閉じ込めて』と言った時には異様なものを感じた。  それでも手を貸したのは、元彼の幸せな結婚の話を耳にして多少なりとも昔の恨みが再燃したからだろう。グレンはもういいが、ゼロスにはまだ言いたい事も恨みもたんまりあったのだ。  面を拝んで詫びさせたら拘束を解いて、それで終わりにしよう。リリアンはそのつもりで今夜こんな時間に、従者一人を伴って監禁場所に向かう途中だったのだ。  夜間はまだ冷え込む。暗い家の陰から何かがゆらりと現れてもおかしくはない。そんな事を思わせる夜、僅かに物陰が動いたのを見てリリアンはビクリと足を止めた。  まるで幽鬼のような登場だ。物陰から、多少明るい所にふらりと出てきた人物を見て、リリアンはいっそ幽霊の方がマシだったと顔を引きつらせて彼女を見ていた。 「リリアン」 「あら、ベアトリス。どうしたの?」 「……どうして、嘘をついたの?」  濃いめの茶の瞳に、明るい金色の髪。格好はいつもゆるふわとしている彼女だが、それも今では薄汚れている。そしてやっぱり、ほんの僅か下腹部がふっくらとしている。  まさかだ。だって、ゼロスと別れたのは何年も昔の話。あいつがベアトリスと今でも付き合っているとは考えられない。しかも子供仕込むなんて、どうしたってあり得ない。その辺、あいつは驚くくらい回避していた。  では、このお腹はなんなの? まさか他の男に強姦でもされて、元々ヤバかった頭がとうとう壊れた?  何にしても現状、危ないのはリリアンだ。 「嘘って何の事かしら?」 「誤魔化さないで。教えてもらった家に、ゼロス様はいなかった」 「あら、おかしいわね? そんなはずないわよ」 「……嘘よ。私全部探したもの。地下も」  そんなの嘘だ。彼女に教えていた家は本当に取り壊される。誰かが中に入らないように鍵をかけているはずで、それはリリアンが持っているのだ。 「鍵、掛かってたわよね?」 「壊したわ」 「壊し! ちょっと、いくら取り壊す予定の家だって乱暴な事!」 「ゼロス様をどこに隠したのよ!!」  ヒステリックな声が響き渡るが、これに目を覚ます者は周辺にない。そもそもの住人がいないのだ。  目が血走っている。ベアトリスが一歩進むごとに、リリアンは一歩後退した。異様な空気を纏うベアトリスが恐ろしく思えたのだ。 「あんた、おかしいわよ……」 「おかしくないわ。離ればなれになってしまった旦那様を迎えに行って、何がおかしいの?」 「旦那って! あんた達結婚なんてしないでしょ!」 「旦那様よ! 見て、このお腹。ゼロス様の子供よ。ようやく授かったの」  そう言って幸せそうに下腹部を撫でるベアトリスを見るリリアンは、周囲をひたすら見回した。  コイツにゼロスの本当の居場所を教えるわけにはいかない。もしも教えたらゼロスは殺されるかもしれない。頭おかしい。 「お別れしていたけれど、この子の事を知ったらきっと一緒にいてくれるわ。ゼロス様、子供すきそうだもの。結婚して、一緒に住むの。誰にも邪魔なんてさせないんだから」  ジロリと下から睨み上げるように見られ、リリアンはあまりの恐怖に来た道を戻りだした。こんなの普通じゃない!  従者も同じように走り出す。目指すのは人のいるだろう表通り。走れば十五分くらいだ。  人間、命がけと思えばこんなにも早く走れる。殺人鬼を目の前にしたように必至に走ったリリアンは、だが後ろからした奇声に振り向き、僅かに足を止めてしまった。 「!」  目に映るそれは、悪魔というよりはもっと醜い、幽鬼だった。  長い金髪を振り乱したベアトリスの手には銀に光るナイフが握られている。果物を切る為のそれは、僅かに錆びて刃もがたついている。  恐れに足が震えて歯の根も合わなくなったリリアンに飛びつくように、ベアトリスはナイフを振り下ろしていた。 「きゃぁぁぁぁ!」  悲鳴が夜闇に木霊して、リリアンは押し潰されるように道に転がる。腕に鈍い痛みが走り、ダクダクと血が溢れ出ている。にも関わらず痛みはよく分からないままだ。  リリアンの上に馬乗りになったベアトリスは大きくナイフを振りかぶる。そして今度はそれを、リリアンの大きな胸に突き落とした。 「ゼロス様を奪うなんて許さない! どこ! 何所にいるのよ!!」 「……」  スッと意識が遠のくような感覚に逆らえない。体も動かない。目の前の光景を呆然と見ているリリアンの視界は閉ざされようとしていた。 「お嬢様!!」  知っている男の声がして、体から重みが消えた。抱き起こされる僅かな浮遊感があった。だがそれは長く続かない。衝撃が走って投げ出されたその視界に、背中にナイフを突き立てられた従者が倒れてきた。  ただ、助けようとしてくれた人を巻き込んだ。バカな嫉妬や虚栄心で、とんでもない事をしたんだと、今更ながらのリリアンは後悔して涙を流した。  従者の背に刺さっていたナイフが抜かれて、それが自分に向けられる。多分この女の目にはもう、現実は映らないのだろう。 「ゼロス様の居場所はどこ」  助かりたいし、助けなければいけない。その思いで、動かない唇を動かして家の場所を伝えた。  幽鬼が幸せそうな笑みを浮かべて夜闇に消えていく。それで、安心に涙が溢れた。そしてそっと、渡さなかった家と地下室の鍵を握りしめたのだった。
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