出会いと想い

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★ゼロス  体が熱い。足が痛んで、引きずっても先に進めない。頭が痛くて、僅かに気持ち悪いけれど、吐き出す物は胃液しかない。  それでも進もうと、石の床に爪を立てる。ギギギギギッと床を滑る爪はボロボロになって、指先は血まみれになっている。いくつかの爪はもう、剥げていた。 「……っ」  踏ん張る足にも力が思うように入らず、意識が遠くなったり、逆に近づいたりしている。心臓を打つそのタイミングで頭痛がしている。  喉が渇いて、意識が不意に遠のいて、ゼロスはズルズルと床に這いずった。そうしてぼんやりと思い出すのは、大事な人と過ごした事ばかりだった。 ===== 『その目を忘れるな。そうすれば、お前は決して負けはしない』  真っ白なハンカチと共に掛けられた言葉を、忘れた事はない。伸べられた手を、忘れた事はない。  騎士団の入団試験の日、ゼロスは珍しく苛立っていた。目の前で、一つの試合が終わった。小柄で非力な少年が、それよりもずっと大きい相手に必死に戦いを挑んで、負けたのだ。  ゼロスはその小柄な少年を称えていた。非力なりに頑張って挑んでいた。その気構えを称えたかった。  だが隣りにいる、次にゼロスと戦う相手はその少年を鼻で笑ったのだ。非力である事を馬鹿にし、身の程知らずだと言ったのだ。  あの子にも、騎士団に入りたい理由があるのだろう。そういう必死さだ。  ゼロスもまた、兄達と不仲になり、仕事先でも問題が起こって居場所がなくてここにきた。  そういう諸々の事情全てを「分不相応」という言葉でバカにされた。そんな気がしたのだ。  だから、ムキになって向かっていって、怪我をした。だが恐怖よりも負けたくないという気持ちが勝って、相手を打ち負かした。  クラウルはあの時、そうしたゼロスの気持ちも全部包むように、今後の気構えを示してくれたように思えた。  それからはずっと、二年も見続けた。最初は借りたハンカチを返そうと思っていた。でも相手は団長で、とても近づけない。手を触れる事などできない高みにいる人だった。  ふと廊下ですれ違う事はある。食堂で見る事はある。暗府執務室の前でばったり出会う事もあった。  だがどれも、声をかけるタイミングじゃない。何よりクラウルは、ゼロスの事を気に留めていなかった。  そのうち、思うようになった。所作が綺麗なこと。無駄がないこと。仲間と一緒にいる時は穏やかな表情をする事。厳しい顔をするけれど、時々とても優しい目をすること。  気付いたら目を離せなくなり、側に近づきたいと思うようになっていった。  だから二年目の新年、酔い潰れたクラウルに近づいて、忘れられないようにと必死にくいついたんだ。 「クラウル……さま……」  渇いた小さな声が彼の名を呼ぶ。呼ばずにはいられなかった。不安な気持ちに押し潰されてしまいそうでたまらない。意識が戻り、また遠のく。次に見たあの人は、秘密の屋敷で一緒に日記を探していた。  一緒に、彼の父親の日記を探していた。沢山の本の中にまみれるようにして見たクラウルは、真剣な顔をしていた。  そして、不意にあの人の過去に触れられた気がして嬉しかった。幼い時のクラウルの様子を日記という形で垣間見るのは、悪い事と思いながらも楽しい時間だった。  手料理も、美味しかった。料理が出来るなんて思ってもみなかったから、驚いたのを覚えている。  そういえば、マッサージもしてくれたか。気持ちよくてたまらなかった。  無条件の信頼を感じた時だった。そして同じ目的を持って一緒に過ごした大事な時間だった。距離が縮まった、決定的な時だった。 「クラウル……さま……」  会いたい、今すぐに。こんな夢なのか記憶なのか、現かも曖昧なものじゃなくて、触れたい。声を、聞きたい……  初めて触れたのは、日記の件から程なくしてだった。食事をして、その後あの人の隠れ家に行ったんだ。  初めての男同士のセックスに、驚きや戸惑いはあった。それでも情けをかけられるのは癪だったのに、あの人は最後まではしなかった。  正直、少し怖かった。最後までしないのに気持ちよくて頭の中が真っ白だった。自分の弱い所なんて知らなかったから、恥ずかしかった。  それに、誰かに主導権を握られてのセックスは初めてだったんだ。  体を重ねる度に、溺れそうな程に気持ちよくなった。開発されて、乳首や腹を撫でられるだけでも痺れるような気持ちよさに疼く様になってしまった。  そして中も、あの人がしっかり開発した。おかげで今では尻だけで何度も高みに達するようになって、最後には訳が分からなくなってしまう。  一緒に、任務もこなした。恋人とは違う背中、戦う姿。それはやはり憧れだ。なんて強いのだろう。なんて、しなやかなのだろう。バロッサの時も、西の時も思った。あの背中を、追い続けていたい。いつまでも見つめていたい。あの背を守りたいなんて大きな事は言えないけれど、せめて置いて行かれないようにしたい。  そんな人が不意に可愛くなる事がある。本気で面倒だが、嫁自慢をするのだ。  恥ずかしいと思っていたし、最初はお仕置きみたいな感じであの人を抱いた事もある。それもよかったが、しっくりくるのはやはりゼロスが受けの時なんだろう。少し悔しい。  今では説教するとき、言わなくても床に正座するようになった。あんな姿、他の人には絶対に見せられない。 『遠く離れても、お前は俺のもので、俺はお前のものだ。そういう繋がりが欲しくなったんだ。らしくないだろ?』  ジェームダルへと向かう前、少し恥ずかしそうにはにかみながらつけてくれたカフス。あれに、何度も助けられた。挫けそうな時、負けそうな時、踏ん張らなければならない時。励ますように存在を示してくれたのはあのカフスだった。  恥ずかしかった所有の証は、離れていても心はここにあるという証でもあった。クラウルの恋人として、一人の騎士として、恥ずかしくない生き方をしたい。  そう思っていたのに、今はそれすらもなくなってしまった。 「く……ぅ……さ、ま……」  寂しい。貴方に見放されてしまったみたいだ。もう、必要ないのだと言われてしまっているみたいだ。  声が出ない。喉がくっついて、思うように音にならない。  このまま、死ぬのだろうか。今見ているこれは、走馬灯というやつなんだろうか。足が痛い。ジンジンと痛んで、ドクドクいっていて、そこが痛むと頭も痛む。体が熱い。  約束を、果たせないまま死ぬのか? 家族に会いたいと、言っていたのに。たったこれだけの事を嬉しそうにしていたのに。 『名を、呼んでくれないか?』  小さな事だった。ただ、ゼロスが逃げていた。いつか来るかもしれない別れを考えて、距離を置こうとした結果だった。  そのせいで悲しませてしまった。たったこれだけの願いを叶えてあげられないまま、クラウルを失うかもしれなかった。  あんなに、他人を憎んだ事はなかった。あんなに誰かを呪った事はなかった。あんなに……愛していたんだと自覚した瞬間はなかった。 『敬語もやめてくれ』 「あ……ぁ……クラ、ウル……」  アンタの声が聞きたい。触れて欲しい。どうして今、こんなに不安なのだろう。泣きたくても、涙もでない。体が軋んで、動かない。  こんなに短い間に沢山の思い出を見せられたら、会いたいじゃないか。愛していると、何度でも言いたいじゃないか。  不思議だ。もっと子供の頃の事とか、友人との事とかを見るのだと思っていたのに、全部がクラウルだ。心の中も全部があの人だと言わんばかりに、それだけなんだ。  深く、眠気が襲ってくる。今眠ったら、起きられるだろうか。不安がこみ上げてくる。  次に起きたら、あの人の願いをちゃんと叶えたい。両親に会わせて、クラウルの母親にも会って……ご挨拶をしたい。  そうしたらきっと、プロポーズとか考えているのだろうか。それはそれで恥ずかしいが、きっと嬉しい。あの人の家族になる自分を想像出来ないけれど、きっと今とあまり変わらないんじゃないだろうか。  起きなきゃいけない。いや、眠ったらいけない。頭の芯が重くて、今も目が開いているのか分からないけれど、この思考を止めたらいけない。  本当はもうとっくに、目は閉じていた。右の足首は青紫に腫れて、足枷の輪に締めつけられて熱を持っていた。発熱も合わさって進んだ脱水は、汗もかけずに意識を混濁させている。  そのゼロスの耳に、遠く遠くミシミシと、木製のドアを破壊する音が微かに聞こえていた。
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