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救出
★クラウル
現場の元飲食店へと到着すると、店舗の木製のドアは何かによってこじ開けられていた。
「これ……斧かなんかじゃ」
鍵穴があるのだろう辺りを中心に、小型の斧のような物を振り下ろして破壊した跡がある。狙って開けたのではない乱雑な痕跡に、相手の異常な精神状態が見えるようだった。
「行くぞ」
破壊されたドアを潜り、店内に入る。辺りは埃を被っているものの破壊の痕跡はない。ドアとはあまりに違うのが、いっそ異様に思えた。
その店舗の奥から、ガンガン! ミシミシ! という音が響いていた。
「静かに進む」
ランバート、レイバン、チェスターに目配せをすると、全員が頷き足音を響かせないように素早く動く。そうして厨房の更に奥へと進んだ先に、その女はいた。
まだ暗い中、ランタンの明かりがゆらゆらと揺れるその中に立つ女はまさに幽鬼だ。長い、ベージュのドレスは裾が汚れてほつれている。長い髪を振り乱し、目は爛々と光っているように思える。薪割り用の小さな斧を両手に持つ、その腹部は心なしかふっくらとしていた。
「誰?」
「ベアトリス・ウィールラトだな」
「そうよ」
「ゼロス・レイヴァース拉致、およびリリアン・アドコック刺傷事件の重要参考人として拘束する」
感情のこもらない淡々とした声で伝えるクラウルに、ベアトリスは暗く光る目を大きく見開き、斧を両手に持ったまま振り向いた。
「私の邪魔をしにきたのね」
ゆらゆらと一歩踏み出す、その異様さにチェスターが一歩下がり、ランバートとレイバンが腰を落として構える。
だが、クラウルはまったく動く事をしなかった。
「邪魔はさせないわ。ゼロス様を取りもどすの。この子も生まれるもの」
愛しそうに腹を撫でる女の姿を、クラウルは冷めた目で見ている。彼の目にはもう、この女は化け物の様に見えている。そんなものに、何の慈悲も必要はない。
「これ以上、邪魔なんてさせない。愛しい旦那様を取りもどすの。もうどこにもやらないわ。私とこの子と三人、小さな家で幸せに暮らすの」
「愛しい?」
氷水に浸かった心に、その言葉は更なる冷たさをもたらす。
ゾクリとするような殺気に、ランバートやレイバンまでもが身構えてクラウルから距離を置いた。
一歩、ベアトリスへと近づいたクラウルの目は暗く鋭く光る。ベアトリスもまた、斧を両手にクラウルを見据えていた。
「愛しい者を、お前は傷つけるのか」
「仕方がないわ、取りもどす為だもの。もうどこにもいかない。いかせない。ゼロス様は私だけの為にあればいいの。大丈夫、私が全部してあげる。愛していますもの」
ムカムカした気持ちと、頭に上る血と、それらを全部凍り付かそうとしている自分がいる。こんなに、しかも女性に殺意を向けた事は今までなかった。奥歯をギリギリと噛みながら、クラウルは暴れ出しそうな殺意を必死に押し込めている。
「邪魔をするなら、貴方も殺す。誰にも邪魔なんてさせない。私はゼロス様と幸せになるのよ!」
狭い廊下を斧を構えて走り込むベアトリスを、クラウルは正面から見据えた。何も考えず脳天を割るような勢いで振り下ろされる斧。その懐に素早く入り込んだクラウルは斧を持つ腕を掴み上げ、斧の柄を掴んで取り上げた。
訓練もされていない、無闇やたらと振り回すだけのものを制圧する事など、造作もない事なのだ。
掴み上げた手を握りつぶすような力を加える。細いベアトリスの腕など、本当に簡単に折れるだろう。実際彼女は「痛い」と喚き散らしている。
「……愛しているなら、どうして傷つける。どうして、苦しむ姿に耐えられる」
クラウルなら、見ていたくない。ゼロスが傷つく姿も、思い悩む姿も、苦しむ姿も。傷つけるくらいならその全てを請け負う。悩むなら共に悩みたい。苦しむなら、取り除いてやりたい。
その先であいつが笑ってくれるなら、幸せであるなら、クラウルはどれだけ苦しくても構わない。
ベアトリスの腕が、ミシミシと音を立てる程に握られる。耳障りな悲鳴は余計に増していく。
「これ以上ゼロスに付きまとうな。お前がゼロスに言われた事が、全てだ」
ベアトリスをランバートの方へと放り投げ、クラウルは先へと急ぐ。そこは地下の食材庫へと続くドアだった。
鍵穴はズタズタになっていたが、幸い内部まで破壊されてはいなかった。鍵を差し込み回すと、重い音と共に開錠される。そうして押し開けた先はまだ暗く、人の姿は見えない。壁際の松明に明かりを灯していってようやく、クラウルはゼロスを見つける事ができた。
「ゼロス!」
ぐったりと力の抜けたゼロスはうつ伏せのまま足枷をされて倒れていた。抱き起こしても反応はなく、苦しそうに息をしているだけだ。
もがいたのだろう、指先が酷く傷ついて、全ての爪から血が滲んでいる。数本は爪が剥げた状態で、床には指の跡がくっきりと赤く残っている。
抱き上げた腕に、僅かにゴワゴワした感触が触れる。明かりで照らすと一部の髪に赤く血がこびりついている。
右足は枷を嵌められ、その足首が青紫色に変色して腫れていた。捻挫よりは上、骨折しているのかもしれない。
「ゼロス、しっかりしろ!」
側には僅かに嘔吐の跡がある。食べていないのだろうが、それ以上に飲んでいない。汗もかいていないが、熱もある。足からきているのだろう。脱水がかなり進んでいる。
まずは水を! だが流石にそれは持ってきていない。上に上がって見つけてくるか、井戸が生きていれば。
「クラウル!」
「エリオット!」
上から声がして振り仰いだクラウルは、駆け下りてくるエリオットを見て力が抜ける思いだった。この状況で誰よりも頼りになる人物だ。
エリオットはすぐにクラウルに水の瓶を渡し、少しずつでも飲ませるように厳命して他の箇所を治療し始める。
鍵束の小さい方の鍵で足枷を外したエリオットは素早く患部を冷やし、固定した。
「すぐに馬車を仕立てます。いいですか、水飲ませてくださいよ!」
慌ただしく出ていくエリオットを見送り、クラウルは瓶を開けてゼロスの唇に押し当てる。少しずつ傾け、口を開けさせて飲ませても上手く飲めずに口の端を伝っていってしまう。だからといって一気に流し込めば咽せて余計に飲めないだろう。
こんなゼロスを一瞬でも見ていたくはない。早く声が聞きたい、目を見て……なんでもいい、大丈夫だと思いたい。
水を自らの口に含み、ゼロスの唇に触れる。舌で上手く唇を割って流し込んだ水が、喉の奥へと落ちていく。上下した喉元に、安堵してもう一度……もう一度……
エリオットが呼ぶまでずっとそうして水を飲ませ続けたクラウルは、ゼロスの体を抱えて監禁場所を出た。
外はすっかり薄明るくなり、春のまだ冷たい空気が肌を刺す。
その中でようやく、悪夢のような日々が終わりを迎えたのだった。
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