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★ゼロス
体は重怠く、意識は浮上しても動く事は億劫でならない。だが自分がいる場所があの硬い石の床ではないことは確かだった。
包み込まれるような柔らかな感触と、心地よい温かさ。慣れた匂いにふと、懐かしさがこみ上げて悲しくなる。まだ、夢を見ている様な気がしてくる。
「ゼロス!」
心地よい声が少し遠くでした。この声が聞きたかった。いや、ずっと夢の中で聞いていた。聞いているのに現実味がなくて、とても怖かった。
「ゼロスしっかりしろ! 分かるか?」
焦った声に、妙に安心した。頬に触れる手の心地よさ。本当に触れられているみたいだ。
「ゼロス!!」
ぼんやりと暗い部屋の明かりに浮かび上がった顔を見て、ゼロスはこれが現実か夢か、判断がつかなかった。
黒い瞳が苦しそうで、ズキリと胸が痛んだ。横に結ばれた唇が、悲しそうだ。ちょっとだけ、目の下に隈が出来ている。
頬に触れた手の熱が伝わってきて、ゼロスは目をパチパチと瞬いた。そして、怠くて重い腕を持ち上げて頬に触れた。
「……本物だ」
「ゼロス?」
触れられる。触れてくれる。それを実感したら、よく分からない衝動と感情が腹の底から沸いてきた。こみ上げたごちゃ混ぜの感情が溢れて涙が出て、なのに笑っている。
「ゼロス!」
「あ、ぁ……生きてるんだ、俺」
「当たり前だ!」
「ははっ」
当たり前か。でも、当たり前だなんて思えなかった。もう随分長い間、夢を見ていたような気がしたんだ。出会った時から今までを、ずっと夢と現実の狭間で見ていたような気分だったんだ。
そっと、壊れ物に触れるような優しい手でクラウルが触れる。その瞳を覗き込むと、落ち着いて色んな現実が戻ってくる。
当然、知られたくなかった諸々もだ。
「……俺のして来た事、知ってしまいましたよね?」
問いかけると、クラウルはビクリと肩を震わせた。それで十分な答えだ。
「……俺、最低ですよね。ほんと……どうしようもない」
「ゼロス」
「嫌いに、なりましたか?」
不安で胸は一杯になって、圧迫されて苦しい。それでも言わなければいけないのだろう。有耶無耶にはできない。
「……呆れられて、嫌われる事がこんなに……息が苦しいくらい怖い」
「ゼロス、俺は」
「それでも、貴方が好きなんです」
伝えたら、クラウルは目を見開いてゼロスを見つめた。
伝わって欲しい。どんな結末でも……もしもここで捨てられても、嫌われても、伝えたい。昔の自分では考えられない諦めの悪さで、しがみつきたい。
「好きです、クラウル様。これだけは、本当なんです。ずっと、貴方との思い出を朦朧としながら見続けて、思いました。俺は最後の瞬間まで、貴方の事を想うんだと。何もかも分からなくなるその寸前まで、貴方の側にいたいんだと」
両親でも、友人でもなくクラウルだけが占めていた。それでいいんだと、思えたんだ。
クラウルの瞳が、弱く光る。そして優しい動きで左耳に触れた。ついている筈の物が消えてしまった耳に。
「……大事なもの一つ守れない俺では、ダメですよね」
絆を失った気がして苦しくて、また一つ涙が頬を伝い落ちていく。
だがクラウルは首を横の振り、サイドボードからハンカチに包まれた物を取り出した。
「それ!」
「お前が示してくれたんだ、ゼロス。ここに居たんだと、教えてくれた」
大切そうに手に取り、前と同じようにつけてくれる。ピッタリと嵌まった左耳は、やはりこれがないとと思えるくらいしっくりと馴染んだ。
「ゼロス、俺がお前を嫌いになる日はない。きっと命尽きても、俺はお前を想う」
「クラウル様」
「愛している、ゼロス。お前が生きていてくれてよかった」
横になったまま抱きしめてくれる腕は、ほんの少し震えている。肩口に埋まった顔は、なかなか上がらない。
「俺も、愛しているよクラウル」
なかなか言えない言葉を何度でも口にして、ゼロスは穏やかに微笑んでいた。
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