暗府

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暗府

★とある夫人の悲劇  まだ朝霧が薄らと街を覆う時間帯。貴族街を走る馬車があった。  精々二人乗りの一頭立てだが手入れがされたそれには、一人の夫人が乗っていた。  年は二〇代後半。明るい金髪に碧眼の、目鼻立ちのはっきりとした美女だ。胸元の開いた赤いドレスに派手な宝石を身につけ、表情は自信に満ちあふれていた。  彼女は一晩遊び歩き、現在愛してもいない夫の所へと戻る途中。当然のように高揚感は覚めて、徐々に不機嫌になってきた。 「もう少し早くなさい」 「ですが、この霧です。人でも出て来たら轢いてしまいますよ」 「こんな時間に出歩いているのなんて、小間使いくらいでしょ」  小間使いだから轢いても構わない。そのように聞こえて、御者は深く溜息をつきつつ夫人の要望通り馬に声をかけた。  馬が僅かにスピードを上げようとした、その時だった。霧の中に薄らと人影が現れた気がして、御者は慌てて手綱を引いた。  車輪の軋む音と馬の嘶き。衝撃は馬車にも伝わったが、そんな事を言っている場合ではない。当たってはいないと思うが、人影はその場に倒れてしまったのだ。 「あぁ、なんて事だ!」  慌てて馬を落ち着かせて御者台から降りた御者。その後から怒り心頭の夫人も降りて来て、ヒステリックに御者を罵った。 「何をしているの!」 「人が……」 「知らないわよ、そんなも……の」  御者は一人の青年を抱きかかえていた。整った顔立ちの、長身の男だ。格好こそ少しよれた白いシャツに薄いコートというみすぼらしさだが、顔や体格は申し分ない。すっきりと歪みなく通った鼻梁や、白い肌理の細かい肌。その頬などが少し汚れている。  磨き、そして着せ替えれば見違えるほどに輝くのは明白だった。 「うっ」 「あぁ、よかった。大丈夫かい、あんた?」  長い睫毛が持ち上がり、現れた黒い瞳は真っ直ぐであり、素直そうに見える。ぼんやりとした視線にまで色香があるようだ。 「はい、申し訳ありません。務めが終わって、帰る所でして……っ!」  足を地に着け立ち上がろうとした途端、青年は失敗して片方の足首を押さえた。見ると僅かに赤くなっている。 「まぁ、大変! 足を怪我なさったの?」  見ていた夫人が声をかけ、わざわざ青年の側に寄ると足首に触れてくる。細いがしっかりと筋肉のついた足だ。 「大丈夫です、このくらいは。それよりも奥様、綺麗なお召し物が汚れてしまいます」 「大丈夫ではありませんわ。私どもが悪いのですもの。幸い、我が家はここからすぐですわ」  夫人は甲斐甲斐しく青年の手を取って立ち上がる助けをしてみせる。立つと予想以上に、青年は長身だった。 「服も汚れてしまいましたね。さぁ、どうぞ」 「ですが……」 「遠慮はいらないわ。怪我を診てみないと」 「このような立派なものに、俺の様なみすぼらしい者が乗っては汚れてしまいます」 「あら、そんな事はないわよ。貴方は磨けばきっと、綺麗に輝くわよ」  そう言って青年の頬に触れる夫人の指先には、明らかに官能が含まれていた。 「そういえば、名をまで聞いていませんでしたね」 「あっ、申し訳ありません。レックスと申します」 「いい名前ね。私はジャクリーンよ」 「ジャクリーン夫人?」 「……夫人はいらないわ」  『夫人』とつけた途端、ジャクリーンは忌々しそうに青い瞳を眇める。憎悪さえ感じる負の表情に、レックスは僅かに驚き二度頷いた。  ジャクリーンの屋敷は馬車で数分の所にある、中規模な屋敷だった。  中規模と言ってもそこそこの広さだ。更に奥に行けば四大公爵家の邸宅や、事業で成功しているアベルザードの屋敷もあるが、あちらは一際でかいだけ。ジャクリーンの屋敷は立派な部類に入る。  申し訳程度の前庭に馬車がつき、レックスを御者が運ぶ。車輪の音で起きたのだろう屋敷の老執事が、凄い形相でレックスとジャクリーンを睨んだ。 「奥様、そう何日も朝帰りとは、品位に欠けます。しかもそのような若い男まで連れ込むとは!」 「違うわよ。帰りを急いでいたら馬車で轢いてしまいそうになったの。足を痛めたようで申し訳ないから、治療だけでもと連れてきたのよ」  それでも老執事の疑いは晴れない。レックスを睨み付けるが、彼を抱える御者が何度も首を縦に振った。それで、嘘ではないと判断したのだろう。老執事の視線がようやく離れた。 「ご主人様も大層お怒りですぞ」 「あら、あの人に私を怒る権利なんてあるかしら。若い奥さんを貰って、鼻高々じゃない。相手にもしないくせに」 「世間体というものが」 「世間体で飼い殺しにされちゃたまらないわ!」  高い声が響き、耳に触る。老執事は溜息をついて首を左右に振り、気を取り直して前を向いた。 「今日は旦那様にご報告いたします。ついてきてください」 「構わないわよ、離縁でもなんでも」  腕を組んで見下す彼女の表情は、表面は綺麗だが内面の醜さが表れた。そんなものに見えた。  ジャクリーンが夫の所へと行くと、老執事に起こされて不機嫌そうな、三十後半の男が出迎えた。厚手のカーディガンを肩に掛けた男は、若い奥方の夜遊びにほとほと嫌気がさしていた。 「また朝帰りか、お前は」 「あら、それがどうしたの?」 「どうしたのではない! お前は私の妻なんだぞ!」 「父様が厄介払いした先でしかないわね。いいじゃない、最低限の妻業はしているわよ? それ以上を求めるのは止めてくださらない?」 「お前!」 「離縁でも構いませんわよ。窮屈でたまりませんわ」  キツい声で伝えるジャクリーンに対し、男の方は苦虫を噛みつぶしたような顔をする。  男はこれでも、妻となったジャクリーンに関心があったのだ。不祥事で嫁ぎ先を探しているという彼女の父に勧められた時、多少は喜びもあった。  だが、当のジャクリーンは容姿こそ好ましかったが、中身はとんだあばずれだったのだ。  それでも離縁できないのは、どこかでまだ諦め切れていないからなのだろう。 「枯れかけの貴方では満足なんて出来ないのは、十分お分かりでしょ?」 「なんだと!」 「面白みもない、顔も平凡、地位もそこそこ。これで私を妻に出来たんだもの、十分幸運よ? これ以上は高望みなんじゃなくて?」  起き抜けの男の顔が見る間に赤くなっていく。だがそれに怯むジャクリーンではない。小物な夫を鼻で笑った。 「遊びなんだから、いいじゃない。男は女を引き立ててなんぼよ。貴方じゃ私、全然輝けないの。私まで枯れてしまうわ」  それだけを吐き捨てて、ジャクリーンは踵を返して出て行ってしまう。  男はそんな妻の後を、追う気になれなかった。  ジャクリーンがサロンへと行くと、足首に包帯を巻いたレックスが申し訳なさそうな顔で待っていた。御者が薬箱を持って立ち上がる。 「軽く捻ったのでしょう。痛みはもうないようです」 「それはよかった」  夫に向けた表情が嘘のように輝くジャクリーンに、レックスは立ち上がって丁寧に頭を下げた。 「申し訳ありません、奥様。こんなによくして頂いて」 「そんな事ありませんわよ、こちらの不注意ですもの。それよりも、朝食食べ損なったんじゃなくて? 私もこれからなのよ。付き合いなさいな」 「あの、流石にそれは……」  レックスは入り口の辺りで厳しい顔をしている老執事をチラリと見る。レックスに対する明らかな監視はなくなったが、それでも疑ってはいるようだった。  だがジャクリーンはまったくそれを気にしていない。むしろ老執事を疎み、なんとしてでも目の前の綺麗で若い男を自らの物にしようと息巻いている。 「いいじゃない! ほら、座りなさいな」 「あの、ですが……わぁ!」 「ほらほら」  強引に腕を引いてレックスを椅子に座らせたジャクリーンは、キツい目で老執事に朝食の準備を二人分させた。  正直、老執事にとっては腹立たしいことこの上ないが、それでも主人の妻であり、雇用主でもある。従わざるを得ないのが現状だ。  朝食の準備に老執事が出て行くのを見て、ジャクリーンは御者も外に出してしまう。そうなるとサロンには二人きりだ。彼女の趣味を詰め込んだ美術品や、仕立てのいい調度品。今座っているソファーだって整えさせた。  そのソファーに二人隣り合うようにして、ジャクリーンは固まっているレックスの手に自らの指を絡ませた。 「貴方、どこに勤めているの?」 「ここから少し行ったところです。名前は勘弁してください。怒られてしまいます」 「ねぇ、ここに移らない? いい待遇で迎えるわよ?」 「えぇ!」  驚き、ビクリとジャクリーンを見たレックスはそれでも動けずにジャクリーンを凝視する。  誘惑する彼女の碧眼が、ジッとレックスを観察していた。 「貴方、小間使いじゃ勿体ないわ。折角綺麗な顔をしているんですもの。髪を整えて、着る物を変えれば綺麗になるわ」  誘う指先が、レックスの頬に触れる。驚き、見開かれるレックスの黒い瞳を見上げて、ジャクリーンは妖艶笑んだ。 「どうかしら、試してみませんこと?」 「そんな、不相応な事は……」 「私が許すと言うのだもの、構わないのよ」  手がレックスの太股に触れ、グッと体が近づいてくる。急な接近に驚いたレックスだが、固まったように動けずにいた。  その時、コンコンとノックが響き、二人分のスコーンを持った老執事が入ってきて、この状態の二人を厳しい目で睨んだ。 「準備が整ってございます」 「あっ、あの! 俺、手伝います!」  金縛りにあっていたレックスはスルリとジャクリーンから距離を取って立ち上がり、老執事の後ろから来た従者へと近づいていく。  そこには紅茶の準備がされていて、丁度よく蒸らされてる紅茶がいい匂いを振りまいている。 「お客様はどうぞ」 「あの、それは心苦しいのでどうか」  睨み付ける老執事に、レックスは頼み込んだ。そして目だけで「困っています」と訴えた。  他者の表情や目線で考えや望みを推し量るのが執事という仕事でもある。溜息をついた老執事はこの巻き込まれた可哀想な青年を責めきれるものでもなく、従者の男を見た。 「あの、紅茶を奥様へお持ちいただけますか? 貴方が持っていく方が奥様も喜ばれると思います」 「はい、喜んで」  ほっとした顔をする青年に対して従者は同情的な顔をし、紅茶をカップに注ぐ。レックスはそこにスプーンを添えようとして、手元が狂ってしまった。  カランッという音がして、老執事が眉を寄せ、従者は苦笑した。 「あぁ、すいません!!」 「大丈夫ですよ」  老執事は呆れて溜息をついて手元のスコーンをサーブし、従者はレックスが落としたスプーンをしゃがんで取る。  素直で、ちょっとドジな田舎者っぽい青年だ。誰も、この青年を警戒することはない。だからこそ視線が外れたほんの一瞬、彼が袖元に隠したものを一滴紅茶に落としたのを、皆が見逃したのだ。  レックスがジャクリーンの元に紅茶を運び、老執事がスコーンとジャムを出す。ジャクリーンの命令でレックスの所にも紅茶とスコーンが運ばれてからは、二人きりの空間に戻った。  何でもない話が続いた。ジャクリーンはレックスの話を聞きたがったが、一般的な話しか彼はしない。好きな食べ物や、休日の過ごし方などだ。この屋敷に来ないかという誘いには、それとなくはぐらかすのだ。  そうして三十分も過ぎた頃、ジャクリーンは眠気に勝てずにソファーに凭れるようになっていた。 「大丈夫ですか、ジャクリーン様」 「へん、ね。いつもはこんなに眠くないのに」 「お疲れが出たのですよ。何か掛ける物を持ってきます」 「お願いするわ」  レックスがソファーを立つと、とうとうジャクリーンは体を立てておく事もできずにソファーに横になる。そして程なくして深く寝入ってしまった。  それを確かめたレックスの目には、冷たい光しかなかった。
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