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 ―――幸せの砂が落ちていく。  ひび割れた砂時計の硝子を、直すことはもう出来なくて。  ただ、零れた粒が寂しげに、過ぎた日々と共にその場に取り残されていた―――  タイトル:『砂の姫』   作:折笠慧 「この文章が本当にねぇ、繊細で儚くて、すっごく素敵だったのよね!悲しいのに綺麗っていうか」 「そうですよね……! 私もこのお話大好きです。途中は少し辛いですけど、最後はやっぱりハッピーエンドなので……!」 「ええ、ラストもとっても素敵だったわ! 貴女に教えてもらって、本当に良かった。あたしもこれからこの方の本はかかさず買うことにするわ」 「ぜひ!」  嬉しい言葉に、私は思わず勢い込んで返事をした。  すると妙齢の上品な奥様は、ふふ、と口元に手を当てて笑ってくれる。  背中を痛めてから数日後―――  既に痛みは無くなり、私は通常通りの勤務に戻っていた。  そろそろ休憩に入ろうかと宝田さんと話していたお昼頃、ちょうど知っているお客様に話しかけられたのがつい先ほどのことだ。  グレイヘアがとても良くお似合いの、ショートカットの奥様は私が以前紹介した本……折笠慧先生の新作「砂の姫」を大層気に入ってくれたらしく、今日はその感想を伝えにきてくれたそうだった。  折笠慧先生……って、書いた本人は裏にいるんだけど。  レジカウンターの前でお客様と話しつつ、ふと裏の従業員スペースにいる人を思い浮かべる。  工藤店長は伝票の整理中で、パソコンを叩いている筈だが今はその音が止んでいた。  さっき咳き込んでたみたいだし、もしかすると聞いてるのかな。  溌剌としたお客様の声が、工藤店長にも届いていたらいいなと思いながら、私は笑顔でお客様に次のお勧めを紹介していた。  自分が勧めた本を気に入ってもらえるのは、やはり嬉しい。  好きな作家ともなれば尚更だ。  正直な所、あまり人付き合いが得意でない私でも、本のお勧めなら気にせずにできる。  他のスタッフはこれが一番難しいと言っているけれど、私にとっては不思議なくらいだ。  どのジャンルであれ、好きな本というのはある。  参考書でさえ自分が使い易かった出版社のものや、人気のものなど、勧めようと思えばいくらでもピックアップすることができる。  勿論、一番楽しいのは純愛小説の紹介だけど。 「それじゃあ、今度はこれを読んでみるわ。折笠先生の本を全部読み終わったら、またお勧めの作家さんを教えていただける?」 「勿論です!」 「嬉しいわ。それじゃあ、またね」 「ご来店ありがとうございました……!」  軽やかな足取りでお店を後にするお客様を見送ってから、私はふっと息をついた。  自然と口角が上がっているのがわかる。吐いた息は嬉しさの表れだ。  こういう事があるから、私は書店で働くのが好きなのだ。  出版不況と言われている今の時代、人知れず消えていく作品や作家さんはそれこそ数え切れないほど。  だけど、もしもお客様の情報網だけでは知り得ない隠れた名作を自分が伝えられるとしたら、結果その作品がまた次の人に繋がっていく可能性があるならば、これほど素敵な仕事はないと思えるのだ。  ……なんて、ちょっと偉そうかもしれないけど。 「由月ちゃん、とっても嬉しそうね。さっきのお客さんとの会話も弾んでたし」 「す、すいません、つい……!」 「いいのよぉ。今日はそんな忙しくない日だもの。それに、由月ちゃんが折笠慧の本を好きな気持ちがすごく伝わって、聞いててこっちも気持ち良かったわぁ。ほんと、大好きなのねぇ」  レジカウンターの宝田さんに慌てて頭を下げたら、片手をひらひら振って返された。  どうやらレジ対応をしながら話を聞いていたらしい。にこにこしながら言われて、私は首を縦に振りながらはっきり「はい!」と返事を返した。  ―――すると、  ガタンッ! と。    大きな音が店内に木霊した。  ……ん?   何、今の。  思わず目が点になる。  確かに裏から聞こえたような気がするけど……。  私と宝田さんの両方が同時に顔を見合わせる。  が、驚いた表情だった宝田さんの顔が、急に満面の笑顔に変わった。 「あらあら! ふふふっ。由月ちゃんったらやるわねえ」 「な、何がですか?」  わけがわからず、彼女に問う。 「うふふ。いいわ、お昼休憩に入ったらわかるから。レジはあたしが見ているから、お先に行ってきて」 「え、あ、はい……?」  けれど彼女は音の理由を言わないまま、なんだか楽しそうに笑顔で促した。内心首を傾げたけれど「ほらほら」と せっつかれて、私は仕方なくお辞儀をしてレジ裏にある従業員スペースへと引っ込んだ。  しかし。  大きな書類棚の横を通り中に入ると、なぜか、伝票整理をしていた筈の工藤店長が机に突っ伏していて、再び大きく首を傾げる。  何……してるのかしら、この人。  どうしてパソコン机で潰れてるの?  近所の奥様方に評判の人を前にあれだけど、まるで潰れた蛙みたいだ。  しかもちょっと震えてるみたいに揺れてるし。  あ、でも、もしかして。 「あの……? 工藤店長?」 「広瀬さんっ‼」 「は、はい!」  もしや体調でも悪いのかと思って声をかけたら、突然ばっと顔をあげられ名を呼ばれた。おかげで吃驚して反射で声が出る。  お、驚いた……。    だって急に呼ぶんだもの。  というか、どうしてこんな焦ったような顔してるの。この人。  頬なんて少し赤いし、瞳はいつもより輝いてるみたいに見えるし。  もしかして熱でも……?    それとも、私何か失敗してたかな。  思わず今日の自分の仕事を振り返る。が、特に思い当たる節はない。  なのに、工藤店長はまるで睨むみたいにじっと私を見つめていた。  心なしか頬が赤い。それに、瞳も少し潤んでいるような気がする。口をはくはく開けたり閉めたりしていて、イマイチ意図が掴めない。  やっぱり体調が悪いんじゃないだろうか。  ここ数日は、私も背中の怪我のせいで『通いの家政婦さん』ができていなかったし。  赤みを帯びた顔を見てそう思う。  それによくよく観察してみると、耳の先なんて真っ赤だった。 「あの、工藤てんちょ」 「さっきのっ!」 「……え?」  戸惑い半分、心配半分で体調を聞こうとしたところ、再び声を上げられびくりとした。 「さっき、話されていたのは本当ですか……っ」 「さっき……?」 「その、お客様や宝田さんと話していた事、です」  それだけ言って、彼は堪えるみたいにぐっと唇を引き締めた。なんだか、妙に言葉にも動作にも力が入っている。  こんな彼を見るのは初めてだ。  なぜか普段と違う工藤店長の態度に戸惑いながらも、とりあえず言葉の意味を考えた。  お客様と話していた事……?   って、確か折笠慧先生………もとい、工藤店長が書いた『砂の姫』について話していただけだけど。  でも、それが何だって言うんだろう?  軽く思い返してみても、さっぱり意味がわからなかった。  話していたのは彼の本についてだが、特に変な事を言った覚えはない。むしろ褒めていたくらいだ。  あ、でも、もしかして、何か気分を害するような事を言ってしまったのかな。  だったらどうしよう。  確かに本人の聞こえるところで作品の感想をはっきり言うなんて、今思えば結構大胆な事だったかもしれない。  せめてもう少し離れた場所ですれば良かった。  もらう感想全てが、書き手にとって嬉しいものだとは限らないのに。  そう気がついて焦っていると、工藤店長は突然両手で自分の頬をぺしぺし、と叩き、それからばっと私に向かって頭を下げた。  ……へ?  唐突な動作に、思わず唖然とする。 「『砂の姫』……そんなに気に入っていただけて光栄ですっ。 しかも、あんなに褒めていただいて……っ」 「え」 「そ、それに……! そのっ、だ、大好き、と……」 「えっ、あ、それは」  頬を赤くしたまま、工藤店長にそう言われて、一泊遅れで彼が何の事を言っているのか理解した。  そういえば……私、さっきのお客様との会話で、折笠慧先生を……もとい工藤店長の事を褒めまくったような気が。  いやむしろ、崇拝する勢いで色々言ってしまったような気がっ。  本人が裏にいるってわかってた筈なのに、話が弾んでついうっかり!  その上宝田さんに「折笠慧が大好きなのね」と言われて思い切りはっきり「はい!」と返事をしていたのだ。  本人の、すぐ傍で。    正直さっぱりすっかり忘れていたが。  しかしどうやら、工藤店長はその一部始終をここで聞いていたらしい。正しくは聞こえてきたが正解なのだろうけれど。 「さ、さっきのは、そ、そそそのっ……!」  猛烈な羞恥で、顔が一気に熱くなった。  まさか書いた本人の前で作品について熱く語ってしまうとは。幾ら何でも恥ずかし過ぎる。 「すごく、嬉しいです。それに貴重なご感想……本当にありがとうございました……」  工藤店長自身も恥ずかしいのか、赤くなった顔でもう一度私にお辞儀していた。  おかげで、よりこっちの恥ずかしさも増していく。  お昼休憩に来た筈なのに、正直今はそれどころではない。  私は両手で頬を押さえながら、「いえ」とか「すみません……」と返すので精一杯だった。  だってあまりにも、彼が嬉しそうな顔をしてくれていたのだ。  少し色づいた頬が緩んで、色素薄めの茶色い瞳が、まるで日だまりみたいに柔らかい暖かさに染まっていた。  それがなんだか、恥ずかしいのに嬉しくて。    お客様に向けるのとは違う笑顔を自分に見せてくれていることに、不思議な高揚感を感じていた。 「……あらあら、若いっていいわねぇ」 とレジカウンターで呟かれた言葉は、私達の耳には入っていなかった。
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