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別人
いつも余裕のある人が、突然それを崩したら。
例え相手が苦手な人であっても、気になってしまうものだろう。
目前にいる人の変わり様に、私はただ驚いていた。
一目でわかる目の下の隈、明らかにおかしい顔色。
いつもならキラキラしている筈のオーラは微塵も感じられず、身に纏っているのは相反するどんよりとした澱んだ空気。
目にした瞬間、思わず小さく呻いてしまったけれど、それも仕方ない。
だってここまで『普段』と違う人を、初めて見たのだから。
「ど、どうしたんですか、あの人……」
「さあねぇ。朝からずっとアレなのよねぇ」
はあ、と相槌を打ちつつちらりと彼の様子を見やると、まるで漫画みたいに縦に線の入った顔が見えた。
筆で書いたかのように黒ずんだ隈は、苦手な相手といえどもさすがに痛々しい。明らかに無理をして浮かべている笑顔には、普段の爽やかさなど全く感じられない。
す、凄い調子悪そう……。
確かにここ一週間ほど、様子がおかしい気はしていたけれど。
と言っても、普段ならしない溜息をついていたりとか、カウンターで声をかけても虚空を眺めてぼうっとしていたりとか、その程度だったわけで。
穏やかな空気を崩さず、私が目にするとなぜか心引けてしまう柔らかな笑顔もここまで崩れる事は無かったから、普段との違いを感じてはいたものの、明確におかしいと判断はしていなかった。
そうして一日お休みをもらって出勤した今日、目にした彼の具合は、見るからに悪化していて。
昨日一日で何があったのだろうかと、異様に思ってしまうほどの有様だった。
大丈夫、じゃないよね、あれ……。
苦手ではあるけれど、あんな風に目の下に隈までつくっているのを見たらさすがに心配になってしまった。
ふらついた体でようやく朝礼を終えた彼に、宝田さんと二人で歩み寄る。
「ちょっと店長、なあにその酷い顔。ここんとこ具合悪そうだったけど、今日は目に見えて悪いわねぇ。そんなので一日耐えられるのー?」
もちろん口を開いたのは宝田さんで、店長の顔を覗き込みながらやれやれと溜息をついている。その様はまるで息子を注意する母親そのもので、傍にいる私は苦笑いしてしまった。
自分でも気付いていたのだろう、工藤店長が宝田さんの言葉を受けてがっくりと肩を落とす。
「そんなに酷いですかね……」
呟いた言葉にすら覇気が無く、爽やかどころか重々しささえ感じる。疲れの滲んだ声に、この人でも体調を崩すことがあるんだな、などと失礼な事を思ってしまった。
「そおよぉ。その顔じゃちょーーっと、お客さんの前にいられるのは困っちゃうわねぇ。今日は控え室でのんびり事務仕事でも片付けたら? 限界がきたら、ここなら仮眠とってても大丈夫なんだから。こっちは気にしないでいいからね」
ぽんぽん、と軽い調子で店長の肩を叩いた宝田さんが、軽快に笑ってそう言うと、彼は小さくすみません、と謝った。軽く下げられた頭で茶色い髪が揺れる。いつもならふわふわしているはずの髪も、今日は心なしか力なくしょげている風に見えた。
古くから勤めている宝田さんだからこそ、ここまで突っ込んだことが言えるのだけど、私としても同感だったので少しほっとした。
今日は平日。
私と宝田さんの二人でも、お店は十分まわすことが出来る。
そうして、工藤店長を控え室に残し、私と宝田さんは朝の開店業務へとついた。
◇◆◇
「じゃあ、由月ちゃん先にご飯食べてきて」
「わかりました」
平日の為か、客足はそれほど多くなくのんびりした時間が流れている。
お昼の時間になり、私が先に休憩に入ることになった。宝田さんはなんでも朝に食べ過ぎてしまったらしく、あまりお腹が空いてないので先に行って来て欲しいとの事だった。時計の針は丁度十二時を差し、店内に居るお客さんも一人二人と片手で足りるほどなので支障は無いだろう。
この時間になれば客足は大抵遠のくので、様子を見ながら交代で休憩を取るのが暗黙の了解となっている。
「ではお先です」
「あ、そうそう」
午前中に整理した納品伝票のファイルを片付け、控え室へ向かおうとした所、そういえば、という感じで呼び止められた。振り返ると、なぜか口元に両手を添えた宝田さんがほくそ笑んでいる。
「今ね、店長が控え室で寝てるから」
「え……」
まるで悪戯っ子のように微笑む宝田さんを前に、私は内心狼狽えた。
いつもお昼休憩は控え室でお弁当を広げるのが私の日課だけれど、普段なら一人が控え室に居る間は他の二人がお店に出ている。今日の場合なら、工藤店長と宝田さんがお店をまわしてくれるはずなのだけど。
「あ、あのじゃあ私、外でお昼取ってきま……」
「いいのいいの。ほっとけばそのうち勝手に起きて仕事するでしょ。気にせず休憩してきて頂戴。それに何かあった時に裏に居てもらったほうが呼びやすいし」
寝ているといっても、控え室で二人きりになってしまう事を恐れて外に出ようかと提案したけれど、やんわりとそれを否定されてしまった。
確かに、出てしまえば呼ばれてもすぐには来られない。朝の顔色の悪さを思えば、宝田さんも彼に声をかけるのは躊躇われるのだろう。
「……わかりました。じゃあ、そっと行ってきます」
「はい、いってらっしゃい」
あの疲れようなら、たぶん熟睡しているはず。彼の寝相がどうなのかは知らないけれど、起きる気配がしたら早めに休憩を切り上げよう。
そう決めて、私は控え室へと入っていった。
なるべく足音を響かせないように、静かに歩いて様子を伺うと、宝田さんの言葉通り、店長専用のパソコンデスクですやすやと寝息を立てる彼の背中が目に入る。
良かった……熟睡してるみたい……。
控え室自体はそこまで広いというわけではないけれど、十余の従業員分ロッカーに伝票などを収納する棚、金庫と一台だけあるパソコンデスクが壁に沿って並べられ、そして中央には会議室などでよく使用されている長いテーブルが置かれている。
従業員専用扉の隣には小さめの流し台まで付いているので、そこそこの広さはある。なので、なるべく離れた所に座れば、それほど音も気にならないだろう。
細心の注意を払いながら流しで手を洗い、お弁当とお茶を持って長テーブルの端っこのほうに腰掛けた。
一応レンジも完備されているけれど、さすがに使うのは躊躇われたので、温めるのは諦めて、お弁当を包んでいたハンカチを広げる。ここには窓も無いので感じにくいけれど、まだ春になりたての季節のせいか常温でもそれほど気にならなかった。
―――カチャリ、と小さな音を立ててお箸をケースにしまう。
ただ静かに黙々とお弁当を口にしている間、何度かちらりと様子を伺うも寝息は途絶える事なく続いていた。
本当に、疲れてるんだなぁ……。
今もすうすう深く眠り続ける背中を眺めながら、ぼうっと考える。
普通なら、職場で眠ってしまうなんて、と言われてしまうかもしれないけれど、いかんせんここは工藤店長にとっては実家同然だし、彼は店長でありオーナーである。
シフト上に一応はお休みが書かれてはいるけれど、なんだかんだで休日返上で度々顔を見せるので、休みなんてあって無いようなものだった。なのに一度も体調を崩しているところを見たことが無かったので、普段の言動も相まって、ある意味別次元の人みたいに思ってしまっていた。
そりゃ体調くらい崩すよね……人間なんだし。
そう自分を小さく叱り付けていると、ふとある事に気が付いた。
……肩、ちょっと寒そう。
緩く上下する肩を見ると、上着も羽織らず長袖シャツとエプロンだけの姿だった事に気が付く。普段ならこれで動き回っているから寒くは無いと思うけれど、今はまだ春も始めの季節で、お店の暖房がかかっているといえども控え室は奥まっているせいか少々肌寒い。
寝ているときは体温が下がるというし、この上風邪でも引いたら倒れてしまうんじゃないかと心配になってしまった。
お弁当をランチバックに仕舞い、自分のロッカーを空けてバッグの中にそれを入れる。上下二つに分かれたロッカーの下の段に、目当ての物を見つけて取り出した。
ベージュにブラウンチェックのひざ掛け。たまに、控え室で休憩を取るときに使っている私の私物。それを手に取り、寒そうな肩を晒している人にそっと近づいた。机に置かれた横顔がこちらに向けられていて、目に入った寝顔に一瞬目を奪われる。
伏せられた長い睫。通った鼻筋に、軽く閉じた薄い唇。顔の造詣が整っている人は、寝顔も綺麗なのだなと、普段の苦手意識も忘れて見入ってしまった。
数秒、時を忘れて眺めてしまい、はっと我に返る。
わ、私何やってるの……っ。
内心自分を叱咤して、変わらずゆっくり揺れる肩にひざ掛けをかける。起こさないように慎重に、そろりと動かす指先が、なぜか震えてしまった。
それをかけた途端、彼が少しだけ身じろぎをして、起こしてしまったかと思わず強張る。
お、起きた……っ?
静かに様子を伺ってみると、また同じ静かな呼吸が聞こえてきた。それにほっと息を付き、彼が動いた為に少しずれたひざ掛けをもう一度かけ直した。
そうして静かに手を放そうとしたら、突然、指先をきゅっと掴まれた。
「っ!?」
驚いて固まる私に向けて、ゆっくりと開けられた瞳がこちらを向く。ぼんやりと、焦点が合っていなかった虹彩が、はっきりとしたものに変わる瞬間を、私はただ呆然と眺めていた。
「ひろ、せさん……?」
確かめるように呟かれた言葉に、内心パニックを起こしながらこくこくと頷く。掴まれた指先が熱い。無理矢理引き抜くのも躊躇われて、そのままの状態で様子を伺う。
ね、寝ぼけてる?
そんな思いが一瞬頭を過ぎるけれど、次の言葉でそれがかき消された。彼がゆっくりと机から顔を起こす瞬間、『それ』に気が付く。
「あれ?……これ」
目線で自分の背中側を差し、再び私へと戻す。視線に込められた問い掛けに、私は俯きながらもまたこくりと頷いた。
息を飲む音が聞こえ、沈黙が流れる。
返事が返ってこないことに、余計な事をしてしまっただろうかと、不安になった。
その途端、くんっと強く身体が引っ張られた。声を上げる間もなく、軽い音を立てて目の前の何かにぶつかり、次いでぱさりと小さな音がしたのが聞こえた。
気付けば、椅子に座った彼の腕が、私の身体に回されていて。唐突な状況に、あ、と大きく唇を開いた。
え、何?
どうして!?
声すら出せない私を余所に、腰に回った彼の腕が、ぎゅうと私を締め付ける。まるで幼子が母親に抱きついている様な格好に、ただ狼狽えた。
重なった体温に、互いの身体が密着していることに気付いて、滝のような羞恥が襲う。
「……ありがとう」
顔に上る熱を抑える事すら出来ないまま、目下から発せられた言葉に反応して彼を見ると、薄い唇を弧に変え微笑みながら私を見上げているのが見えた。
―――その表情に、なぜかぐっと喉が詰まって。
細められた瞳の奥に垣間見える光は、私の知らないこの人の何かを見せてくれているようで、ざわざわと胸を騒がせる。
いつもとは違う、顔全体を柔らかくして微笑むその姿に、なぜか胸が抉られたような気がした。
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