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折笠慧
「昨日はごめんねぇ。腰痛が悪化しちゃってねぇ。もう歳だわねぇ」
朝一番に、宝田さんから昨日休んでいたことを謝られた。
腰をぽんっと叩く彼女の様子から、今日は大丈夫なのだとわかったけれど、口ぶりからして身体に不安があるようだった。
宝田さんは結婚もしているし、お子さんも二人いる。仕事もあるし家での家事もこなさなきゃならないから、体を休める暇がなかなか無いと言っていた。恐らく無理が祟ったんだろう。
「大丈夫ですよ。運んだりとかは私が代わりますから。遠慮なく言ってください」
笑顔で彼女に返しながら、自分のエプロンを身に着けた。
今日はなるべく宝田さんに目を向けていよう。彼女の事だから、無理して自分で運ぼうとするだろう。
と、そう考えていた矢先。
「ちーっす! おはようございますっ!」
控え室のドアが開くのと同時に、元気な声が飛び込んできた。中嶋君だ。
今日は私と宝田さんの他に、中嶋君も入っている。店長を入れると四人が本日の人員だ。
今日は土曜日。
平日に比べてお客さんは断然増える。ちょうど新刊発売日でもあるので、かなり忙しくなるだろう。
宝田さんが腰を痛めている分、彼が居てくれるのは心強い。工藤店長もいるけれど、基本的に業者さんの相手などをしているのと、昨日の帰り際にあった出来事で声が掛けずらいと思っていたから、正直助かった。
私達が談笑していると、工藤店長の声が掛かる。
「宝田さん、腰は大丈夫ですか?」
「あら店長! 昨日はごめんなさいね。急に休んでしまって。もう歳取るのって嫌ねぇ」
「そんなこと無いですよ。宝田さんはまだまだお若いですから。ですが女性に重い物を持たせるのは心苦しいので、今日は本当に遠慮なく、僕に言ってくださいね」
普段と変わらない煌きスマイルで工藤店長が宝田さんに念を押す。綺麗な見た目だけではないこういう所が、女性に人気がある理由なんだろうなぁと、私はそのやりとりを見ながら考えていた。
すると、ふいに工藤店長の視線がこちらに向けられた。
えっ。
「おはようございます。広瀬さん」
「お、おはようございます……」
尻すぼみになってしまったのは仕方がないと思う。急に振られて驚いてしまったのだ。
昨日の帰り際にあった不思議な出来事が頭をよぎる。彼は何を考えてあんな事を言ったのだろうと。
目の前で私に向かって微笑む工藤店長の顔がまともに見れなくて、慌てて視線を逸らした。
彼はいつもと変わらぬ態度だ。
昨日の事は夢だったのだろうかと思えてくる。
だけど、掴まれた手の感触を、私の肌ははっきり覚えていた。
「それでは、朝礼を始めます」
工藤店長は、本当に普段どおりにそう口にした。
いつもの日常がまた始まる。
この繰り返しの日常が、私の大切な世界。
だから、変わってほしくない。
そう思いながら、彼の声を聞いていた。
◆◇◆
「あら、由月ちゃん! 今日ってほら! 由月ちゃんの好きな何とかいう作者の新作発売日じゃない?」
新刊発売チェックリストを見ながら、宝田さんが声を上げた。
「折笠 慧(おりかさ けい)って言うんですよ。宝田さん」
話題に上がった事が嬉しくて、ついつい顔がにやけてしまう。
そんな私の顔を見て宝田さんがふふっ、と笑う。
「そうそう! その折笠って人! 最近出てきた作家さんなんでしょ? 結構売れてるみたいね」
折笠慧とは、二年前にデビューしたばかりの新人作家の名である。
デビュー作が話題になったので結構知っている人も多いが、しかしその割に作者のプロフィールがほとんど明かされていない。唯一、男性作家であるという事だけしか知られておらず、そのミステリアスな部分も人気の一つとなっている。
彼の描く切なくも儚い純愛物語は、多くの女性読者から支持を得ており、勿論私もその一人だ。
恋に縁のない私が唯一「恋」に浸れる世界。
この作者の作品は全てハッピーエンドで終わる為、非恋モノが苦手な私にとってはそういう所も大好きなポイントだった。
「そうなんです。なので、今日ちょっと楽しみに仕事に来たんですよ」
知らず声が弾む。
好きな作家の新刊発売日というのは、どうしても心がウキウキしてしまう。
仕事が終わったら家でお気に入りの紅茶を飲みながら、少しだけ優雅な読書タイムをするのが私のストレス発散法だ。この時間は、私にとっての至福の時になっている。
幸いにも職場が書店のおかげで、売り切れて買えないなんて事にはならないので、今から読むのが楽しみで仕方がなかった。
「広瀬さん、折笠慧がお好きなんですか?」
「きゃっ!」
宝田さんと二人で話していると、後ろから突然工藤店長の声がかかった。
うわ。びっくりした。後ろにいる気配なんてしなかったのに。
唐突の出現と質問に、驚いた顔を向けると、どうしてか彼も目を見開きこちらを見つめていた。
その目元が少し赤くなっていて、ふと違和感を覚える。
そこで、ああ、いつもの笑顔じゃないからだ。と気が付いた。
「はい、好きです、けど……」
話を聞かれていたのだろうと、肯定の言葉を返せば、彼の瞳が一層見開かれなぜかそのままぱっと俯かれた。
……あれ?
いつもとは異なる反応に首を傾げると、「そうですか」と小さな言葉が聞こえた。
それはやっと耳に届く程度の声量で、いつも丁寧で聞き取り易い話し方をする彼にしては珍しい言い方だった。
らしくない反応に、余計戸惑ってしまう。
今の話題のどこに、彼にこんな行動をさせる理由があったのだろうと考えていると、目の前の人が今度はゆっくり顔を上げて……微笑んだ。
え。
向けられた表情に、動きが止まる。
「……そう、ですか」
―――と。
もう一度噛み締める様に言った彼は『いつもと違う』始めて見る笑顔を浮かべていた。
それを見た私の心臓がなぜか大きな音を立て、続けて呼吸まで苦しくなった。
脈拍が上がったように思うのは恐らく、気のせいでは無いのだろう。
……不意打ちとも言える表情だった。
どうしてだろう。
いつもの笑い方と違う。
とても、嬉しそうに見えた。まるで心の底から喜んでいるみたいに。
彼も、この作者が好きなのだろうか。それにしても反応が普段と違い過ぎるような。
そう思ったところで、中嶋君から声がかかり、彼は控え室へと入って行ってしまった。
「なんなんだろ、一体……」
「さてねぇ。何だったんだろうねぇ」
私が零した言葉を耳聡く拾った宝田さんが、彼が去った方を見ながら口にする。そして、私に向き直り「若いっていいわよねぇ」なんて呟いた。
疑問符を頭に浮かべる私にかまわず、宝田さんは指示を出し、普段通りの流れへと戻っていく。
「さて、仕事仕事! 時間は待ってくれないわよーっ!」
彼女に急かされるまま、私は慌しくいつもの仕事に取り掛かった。
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