⒈「プロローグ:初犯」

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⒈「プロローグ:初犯」

母親の声で「俺」は目を覚ます。 曇り空を携えた夕刻か。ただ単に部屋の電気を点けていなかっただけなのか——不明瞭な意識であったため詳しくは(・・・・)覚えていないが、ただ世界が煙に巻かれたように暗かったことだけは鮮明にと覚えている。 …よく救急蘇生法の教習などで〝相手の名を呼びかける〟という手順を踏んでから人工呼吸等の医療行為を行う流れがある。中学時代に初めて教習を行った際には「何のためにこのようなことをするのか…」と疑問に思いつつも作業感覚で行っていたが、この名を呼ぶという行為はとても重要なことなのである。実際に体験した「私」が言うのだから間違いはない。 別に自慢話をしようという訳ではなくここで私が言いたいことは、例え一見無意味なものだと感じるものには何かしらの意味があるということで、 〝スナップボタンの片割れにも似たジーパンのタッグボタン〟 〝女性下着の谷間下にある謎のリボン〟 〝シャーペンに付属している使いにくい消しゴム〟 …といった一見無意味なものに感じるモノに意味を与えるのはいつだって誰か。無意味なモノ、無駄なモノ…ありとあらゆるモノが溢れるこの世界でそれに価値を与えるのは人間だけなのだ。 まぁ、半世紀すらも生きていない甘ちゃんが〝人間〟を語るには早すぎるのかもしれないが、甘ちゃんだからこそ語れる人間もある。だから、これは「人間」と、そして自分を嫌悪する同族嫌悪の塊で妙な自尊心を備えた偏屈な人間の物語。ただの愚痴だと思って頂ければ幸いである…。  さて、若干話が逸れてしまったが、なぜ今、中学時代に行った救急蘇生法のくだりがあったのか―――再び話を戻すとしよう…。 目を覚ました後、「俺」は立ち上がろうとするが、身体全体が麻痺していて思うように立ち上がれない。それでも何とか二段ベッドを支えに立ち上がり、この現状を確認した後に俺は溜め息をついた。 倒れたベッドのはしご。半開きになった押し入れの天袋(てんぶくろ)。 千切れた貧弱なビニールロープ、勉強机に備え付けられた木製の椅子(イス)。 首元に残る微熱と開放感を感じ、手で触れながら俺は先程まで見ていた夢の残滓(ざんし)を思い出していた。夢の世界へと渡ると意識は身体から浮遊したような感覚に包まれる。いや、包まれているというよりも、むしろ自分という肉体の殻が割れていくことによって感覚が過敏になっているといえるのか…。そして、殻が全て割れた瞬間、得も言えぬ快感が魂を浸らせていた。その意識には(魂となった我が身に意識と呼ばれるものがあるのかは不明だが)忘却の彼方にあるはずの記憶がゆったりと注がれ、都合よく封じた記憶の一切は流されないそれは正に〝幸福〟と呼ぶべきものであった。  記憶に関しては私個人のものであるため共感は出来ないだろうが、この時の魂感(身体はないため)を分かりやすく言い表せば、〝内臓を揺らすことなく空を飛ぶ明晰夢を見ている〟ような解脱・解放の感覚に近いものだろう…。 ほんの僅かな(・・・)苦しみから一歩踏み出した先にある快感と幸福。あの心地よい感覚がもう少し続けば‥と思い返さない時はない。そして、あれが「回り灯籠(とうろう)」であると気づいたのは、その日の夜であったか。夢の世界で注がれた記憶の(ことごと)くは消失してしまったが、私の脳に微かに染み付いていたのは、ある人物のことであった。 「———? ——っ」 自室に入ってきた母親が何やら言っているが、俺は一言(声を発せていたのかも覚えてはいないが…)。 「大丈夫。棚から物取ろうとしただけだから…」 とても高校三年生がつくとは思えない嘘をならべ、何とか母親を追い返すのであった。 倒れた椅子を元の勉強机の懐に戻し、ベッドのはしごを元の場所に掛け直す。その際、千切れたロープの片割れを発見し、俺は結び目をほどき始めていた。血の回らない身体のせいか頭痛が酷く、思うように指先が動かなかったため時間は掛かったが解き終えた所で特に達成感もないままもう片方のロープを拾ってゴミ箱に投げ捨てる。最後に半開きになった押し入れの天袋を閉め、俺は静かに勉強机に座るのであった。 「嗚呼…」 これは脱力ではない。私の口から飛び出たであろうその感嘆は、子どもの遊びでは決して体験できないような本物の絶望に打ち震える圧倒の声である。 机の上にはA4サイズの紙が一枚。 紙面にはメモ書き程度に書かれた一文が記されているのみ…。 それをしばらく見つめた後、ぐしゃり‥と感情をぶつけるように紙を握り潰し、ゴミ箱へ叩きつけると、頭を抱えて机に突っ伏すのであった。 ————これからどうすればいいのか。どう生きていけば良いのか‥‥。 心が沈み、身体が沈む。いっそ、このまま机の中に吸い込まれてしまえば良いのに…と願った途端、まるで呼応するかのように今まで(・・・)の封じた記憶が次々と脳内に映し出されていた。 ―――――いやだ…嫌だ。止めろ止めろ消えろきえろ———————ね…●ね! 頭を机に打ちつけ、両手の拳で側頭部を殴り続けながら俺は再び自己暗示をかける。 …なぜ過去の自分に、今の自分が苦しめられなければならない。 人の努力は多少なりとも現実に反映される。この世に無駄な努力などはなく、「道」は走り続ければ必ず望みに近い終着点が待っているはずだった。 「頑張ればきっと何でもできる」 その理念が崩された刹那、俺はこの世の理不尽の全てを呪った。 無残にねじ曲げられた理想は自身への嫌悪を深める呪いへと繋がり、結果として先程の行為へと至ったわけなのだが、結果は冒頭へと回帰することとなる。 「…もう死にたい…」 こうして私は、一度目の自殺に失敗した。 私立大学への入学を控えた高校三年の出来事である‥‥。
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