灰色の中に

1/4
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ

灰色の中に

1 その手紙が僕に与えたものは絶望と怒りだけであった。他には何も残っていない。 2 昔、彼女はこう言っていた。 「過去は変えられるわ。今を生きているかぎりね。」 それは彼女自身に言い聞かせているようにも聞こえた。どちらにせよ、当時の僕はその言葉に何度か救われていた。いつか嵐は通り過ぎ去り、小さな芽は差し込む日の光を浴びて育つだろう。そこには薄いけれども確かに色彩をもった虹が架かるだろう。 だが、彼女があの時言っていたことには一つだけ間違いがあった。僕がそれに気づいたのはその言葉が僕に刻まれてから、六年も経った後だった。 3 「……すまん、なんとも言えない。正確に言うなら、なんと言えばいいか…。」 「…最初は冗談かと思ったさ。でもいつまでたっても鏡花に連絡は着かないし、お前からも返事がなかった。その時、由紀があのメールで言っている事はもしかしたら本当かもしれないなと思ったよ。何より確かなことは、由紀はこんな酷いことを言う奴だとは思えなかった。できたら、冗談であってほしかったけど。」 この夏きっとたくさんの海水を浴びたビーチの砂を無造作に撫でながら僕はそう答えた。今は潮が引き、砂は乾いている。波は一定の時間間隔でその砂浜を撫でるように流れている。どういうわけか言い終えると胸に鈍い痛みがした。 「すまない。俺には心を落ち着かせる時間が必要だった。」 紅也は少しうつむいて言う。今度は潮風がまるで僕らを優しくなでるように吹く。日差しが紅也の少し暗めの茶髪を強調する。まるで今日で夏休みが終わるかのような無常観が僕らの上を通り過ぎる。 「リュウ。本当に悪かった。でも、実際に周りのことが何も考えられなくなった。何もかも真っ暗になって何も見えなかった。お前の連絡にも気づいていたのに、答えようとすると、しばらく手が震えて何もできなかった。嘘じゃない…本当にすまない。」紅也が言う。 「…そんな…謝らないでくれよ。」僕は申し訳なさそうに言った。だが我儘を言うならやっぱりもっと早く紅也と話したかった。 「俺には由紀から何も来なかった…それが良いことか悪いことかはわからない。あれだけ仲良かったのに最後はひたすら悲しさしか残らないのってあんまりだな…」 「…」 僕はしばらく考え込んだ。悲しさしか残らない別れ。僕にだっていつか別れの時が来るときくらいはわかっていた。ただ、いつか来るべき別れはいくら何でもこんな形でなくても良かったはずだ。鏡花は僕の知らない間にこの世界を離れてしまった。由紀は僕を呪い、最後まで会うことなく突然絶縁してしまった。二人ともどこか自分の手の届かない遠くへと行ってしまった。 ひょっとしたら、僕が気づいていないだけで二人はずいぶん前から僕とは同じ世界にいなかったのかもしれない。思えば、昔は四人でたくさんの思い出を作った。そのころは、二人とも僕らと同じ世界で同じような景色を見ていたのだと思う。 でもいつからか、僕らの世界を背後で動かし続けていた歯車はどこかでリズムを崩してしまった。おそらく、僕以外の皆はその歯車の不調に気づいていたかもしれない。そして、少しずつ僕らの運命は当時描かれていた予定調和からは外れて、それぞれ少しずつ枝分かれするように別々の方向へ道が伸びてしまった。昔作った思い出は戻るには遠く彼方へと取り残されていた。僕を含めて誰も歯車を直すことができず、昔の思い出は忘れ去られてゆく。僕の思いとは無関係に別の方向へ僕が歩く道が描き続けられる。 そのようにして目の前に開かれた軌跡を辿ってしばらくすると小さな映画館が前方に見えた。中に入ると、大きなスクリーンが僕を待っていた。客は誰もおらず、閑散としている。やがて、かつての思い出の写真が目の前のスクリーンに映し出される。だがよく見ると、写真の端からマッチで火がつけられてじわじわと燃えていた。僕は虚ろな面持ちで座席に座り、その燃えているさまを淡々と受け入れることしかできない。 写真が燃える中、由紀の声が館内に響き渡るようにして聞こえてくる。 「そう、あなたは二人の人間をこの世界から葬ったのよ。一人は私にとって大切な人。とても大切な人。もう一人はこの世界の希望。文字通り、希望であったけれどもあなたがそれを光の一切無い絶望に変えた。」 やがて燃え尽きようとしているけれども、僕らが皆仲良く遊んでいたあの頃の思い出は本当に燃え尽きてしまうのだろうか。燃えさかる火が写真を焦がしていく様を眺めながら僕は一つのことに思い当たる。ここに映るものが全てではない。映り切らなかった写真もある。写真の中にはすべてを写せなかったものある。そういった写り切らなかった大切な光や色は、貝殻の欠片となり、心の砂浜で輝きを放っている。たとえ今映る思い出がただの燃え殻になっていたとしても、消えてなくならない何かは僕の心をなぞって跡を残している。その跡はきっとこれからもこの砂浜で波にかき消されることはないだろう。きっとだ。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!