第15章 小原くんの初恋

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「…苅田さぁ」 気づくと自然に息でも吐くように、自分から話の口火を切っていた。橋の向こうにぽつぽつと、てんでに散らばって進んでる大小さまざまな船を目でぼんやりと追いながら尋ねる。 「お前みたいな女の子なら。まぁ、あんまりそんな経験もないだろうけどさ。例えば誰か、すごく好きな相手ができるとするじゃん。それで、こっちが好意を示すと意外にあっさりいいよ、って受け入れられたと思ったら。…こっちのことを好きになったとかそういうんじゃなくて。むしろ向こうは恋愛なんか何の興味もないんだ。全くそんなもの必要としてない、根本的に」 苅田は生真面目な顔で目の前に広がる海に目線をやって、しばしじっと考え込んだ。やがて話の設定が飲み込めたらしく、おもむろに深々と頷く。 「それはまた。…迫真的な状況だね。なんか、あまりにもぴったりしてて。…仮定の話とも思えない」 「そ、…そう?でもお前なんか。誰か好きになって本気で迫ったら。そこそこ結構、なんとでもなるんじゃないの?」 しみじみと感じ入ってる様子にちょっと戸惑う。別に、俺の状況を察して深く同情してるってわけでもなさそうだし。なんでそんなに強く共感覚えるのか全然不明。 奴は謎の熱を込めて俺に向き直って言い募った。 「いや、わかるよ大体。そいつは鈍くてどんくさくて、草食も草食、天然ものの恋愛音痴で。どんなに時間かけてアプローチしても全くこっちの意図が読めなくて、どうも最初から恋愛に関する機能が完全に抜け落ちてるみたいで。全然そんなの必要としてないから、本気で惚れて迫っても体当たりで当たって砕けろでがばっと押し倒してもぴくりとも反応しない。それで親切に手を伸べて立たせてくれて、怪我はなかったか?お前はおっちょこちょいで危なっかしいから気をつけろよ、とかしたり顔でたしなめたりするんでしょ」 「嫌に具体的イメージだなぁ…」 奴の勢いづいた長台詞に圧倒されて思わず口ごもる。どんな怨念がこもってるんだ。こいつ、そんな失恋の経験でもあるのか。意外だな。 「苅田みたいなやつに無反応なんてそんな男もいるのか。勿体ないおばけにとって食われるよ、いずれ。…うーん、でも。そういうのともちょっと違ってて。向こうはちゃんとこっちの気持ちを察してとにかく受け入れてはくれるんだ。…でも、期待してた意味でじゃなくて。例えて言うと、親切からなのか何でも欲しいものは持っていっていいですよ、って感じでドアを全部開けてくれる。だけど中に入って探すと彼女の心はそこになくて。…恋愛感情の存在意義なんてどうやらもともと感じてないみたいなんだ。だから、俺が何を足りないって思ってるかも多分今ひとつ理解できてないんじゃないのかな、…って。思って」 おそらくそういうことなんだと思う。 月子さんが俺と向き合って、正直に今までの経緯を全て話してくれたときのことを思い出す。 生家にいた時から結婚後の生活まで、ざっと教えてもらったエピソードの中に誰かと真剣に恋に落ちたような形跡が改めて思い出してみても全然なかった。もちろん、話の本筋と関係ないから省いただけで、心の中で誰かに密かに恋心を抱いたことくらい、絶対ないとは言えないけど。 でも、実家で暮らしてた頃は虐待の気配に怯えていつも心の休まる暇がなかったみたいだし。恋愛なんかしてる余裕があったような口ぶりじゃなかった。 その後、結婚するまであの元旦那以外に特に男性との接点があった様子でもなかったし。バンドのメンバーを除くと結婚後は異性の知り合いがいたようでもない。 父親と元夫とその手下たちで男はもう結構。それ以外のごく何でもない普通の男性が身近にいなかったことに特別不足も感じてなかったらしい様子から察するに、もしかしたら月子さんは、これまで誰かに恋したことなんか一度も経験がないんじゃないのかな。 いや、それを言い出したら。ふと我が身を省みて思わず小さく肩をすくめる。ここに、これまで全く異性に対して特別な気持ちを持ったことがなかった奴が現にいるわけだけど、彼女の他にも。だけどこっちは当年とってやっと二十一歳、しかもめでたく初恋に落ちたばかり。単に出会うべき相手に今まで巡り会えてなかっただけ、って言えなくもない。 その点月子さんの場合、結婚もして子どもも産んだし。旦那以外の複数の異性との接点がなくもなかったのにそれでも全く誰にも心が動いた様子もないのがやっぱり特異に思える。
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