第15章 小原くんの初恋

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第15章 小原くんの初恋

「悟里?…さとりちゃん、どしたの?ぼうっとしちゃって。脳みそにお花でも咲いちゃったの?」 誰が。…てか、いきなり。何? 俺はそこではっとして我に返った。思わず呆然となって、視界の中に広がる見慣れない景色をただ眺めるしかない。 「あれ?…何で、海?俺、どうしてここにいんだっけ?」 呆れ返った声がごく近い隣で突っ込みを入れる。その声自体は耳慣れた気安いもので、確実に知ってる奴のだからそれはまあいいんだけど。 「本当に何にも覚えてないの?見た目だけじゃなく頭も真剣に重症だね、さとりちゃん。なんだか今日はとりわけ上の空でぼんやりしてるなぁとは正直思ってたけど…。さてはデートしよ、って言ったらうんいいよ、って答えたのも。まさかの生返事、ってこと?」 まさに図星。とはさすがに口にできないが。俺はぐるりと人工的な造りの浜辺を見回し、おもむろに隣に座る涼しい顔つきの苅田を見据えた。 「それで。わざわざこんなとこまで来たんだ。具体的に言うとここどこ、お台場?」 「まあそうだけど。海浜公園だよ。わたしが海が見たいって言ったら、だったらいいとこがあるって。電車の乗り換えもちゃんと指示してくれたじゃん」 「え。…そうなの?」 さすがに自分の離人状態の深刻さに怯む。漠然と誰かの問いかけに返答とかしながら漫然と電車に揺られてた切れぎれの記憶はなくもないけど。外見としては、普通に会話したりいろいろ自ら提案したりしてたのかな。まるで自動人形だ。…そんな自分がちょっと怖いかも。 苅田はふぅん、とぶんむくれて手にしたトートバッグをぶるんぶるん、と小学生みたいに思いきり回した。 「なぁんだ、てっきり。たまには二人っきりでデートとかしようよ、海なんて見たくない?って駄目元で訊いてみたらさ。うんまあ、別にいいよなんてあっさりOKするから。これはちょっと前向きに検討の余地ありかな、と期待したのに。ただ目を開けたまま気絶してただけだったのかぁ…」 「誰が気絶か。てかお前、そんなことするとバッグの中身飛び散るぞ。俺はやだからな、お前の化粧ポーチだのペンだの砂浜に這いつくばって拾って回るの」 苅田は素っ気なく肩をすぼめて俺を突き放した。 「そんな風になるわけないじゃん。悟里、遠心力とか知らないの?」 それは知ってる。でも、細かいもんがばらばら入ったバッグは水入りバケツとは違うから。 俺の心配にも関わらず、奴は器用にくるんとバッグの回転を止めて無事膝元に抱え込んだ。それからちょっとにじり寄って隣の俺との距離を詰めると、探るように声をかけてくる。 「それで。…どうなの、うわの空の原因。やっぱあのシングルマザー?ついに突撃して結果玉砕しちゃった、とか?…なんなら、わたしでよければさ。多少は…、代わりに付き合ってやらないことも。ないけど」 「別にそんなんじゃないよ。振られたりとかは、…してない。多分」 まあ、この現状が失恋か失恋じゃないかって言ったら。概ね望みなし、って判定が出たことは紛れもない事実だけど。 そこで俺はふと冷静さを取り戻し、さり気なく平然ととんでもない申し出をした苅田をたしなめる。 「あのさ。そういうこと、冗談でも言わない方がいいよ。俺はともかく…、絶対本気にする奴いるから。苅田は危なっかしいんだよ、そういうとこ」 だって、と不平そうにふくれっ面をする奴に、俺は噛んで含めるように言い聞かせた。 「付き合おうか、とか軽い気持ちで言ったことでも相手が舞い上がってその気になられたら面倒だろ。お前はまあ、一般的に言ったら多分それなりだし。変につけあがってしつこくつきまとう男が出てこないとも限らないから。どうにでも解釈するできるようなこと、口にしない習慣つけといた方がいいんじゃないの」 あからさまに苅田を狙う風だったサークルの青井のことを思い浮かべる。てか、あのくらいの下心あるやつ他にも何人かいそうな気がするし。思えばこいつ、三年のこの時期までよくも無事でいられたな。 苅田はふと真面目と言えなくもない表情で俺を見た。 「そしたらさ。…どうして悟里は、あたしの言うこと真剣に受け止めないの?」 「え?…うーん、なんでだろ」 そう真っ向から問われると。俺は素直に首を捻った。 どこからどう見ても友達同士だから。これまでの数年間の関係の積み重ねがあるから。気を許せる気楽な仲のこいつとの間の空気を壊す気なんか、毛頭ないから…? そこでふと彼女のことが脳裏をよぎった。月子さんは、俺との関係について。ああいうことを受けたら、壊れちゃって二度と元には戻らないかもとかは。あんまり考えなかったのかな。 隣人同士で子どもたちとも家族ぐるみで親しいし、これまでの信頼関係があるとはいえ。男女のことで、微妙な話だし。 一度身体の関係ができたらこれまでにない様々な感情がお互い生じてきて、複雑骨折的に変に拗れてしまってもおかしくない。 月子さんにはそんな成り行きは予想できなかったんだろうか。終わったあと、俺が明るい表情ですっきりしました、どうもご馳走さまです!かなんか元気よくお礼を言って。それからまた何事もなかったみたいにいつも通りの間柄に戻れるとでも思ってた? …それとも。彼女にしたら常に手助けがしたくてたまらないみたいにそわそわ周りに居着かれるのは正直ちょっとうっとおしくて。こうやって俺が脈のないこと自分から察して、諦めて距離を置いてくれて今頃は内心ほっとしてる。ってのが実際のところ…?
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