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「警部!」
外でタバコを吸っていると馬車からヒューゲルが飛び出して来た。
「おお、ヒューゲル。御苦労だったな。良かった。行き違いにならなくて」
「いえ、警部。その……」
ヒューゲルの視線は古くて汚い共同居住建物に向けられている。電気が煌々と照らし、重々しい人の出入りがある。「ここが例の傘職人の……?」
「そうだ。名前はルートヴィヒ・ハフトマン。彼はもう死んでいたよ。ドクトル・カントの診たところ、死んだのは今朝だ。彼はマリア・ヴェッツェンベルク嬢が死んですぐに首を吊ったようだ」
「警部……彼女は時々夜更かしをしているのか、朝なかなか降りてこない日があったそうです……前日にその傘職人と会っていたんでしょうか……」
ヒューゲルの言葉にヘルツ警部は頷いた。
「そうだな。……死体の周りには紙がたくさん落ちていた。日記の残骸でマリア・ヴェッツェンベルク嬢のことばかり書いてあったよ。シーメリングの子ども時代の約束、傘造りのために上京してから彼女を遠目から眺めていたこと、ヴァルトフォーゲルとは別の店の傘屋で傘を作り始めたがなかなか認められなかったこと、衝突が過ぎてついに首になってしまったこと、それが原因で彼女が夜、自分と会ってくれなくなったこと、そしてあの日アイヒホルン子爵から贈られた傘と自分の傘を比べられて『みすぼらしい』と嘲られたこと……」
「子ども時代の約束って何ですか?」
ヒューゲルが聞いた。
「……大人になったら、自分がマリアの傘を作ってあげる。という約束だ。彼女はな、それすらも嘲笑ったんだ」
ヘルツ警部の虚ろで悲しげな声は突風に吹かれて消えた。その言葉と同じように子どもの頃の淡い約束は世間と時間という風に吹かれて消えてしまった。
『きっとよ、ルート! あたしが大きくなったらルートの傘で市立公園やリングシュトラーセを歩き回るんだから! だから頑張って良い傘を作ってね!』
『うん……頑張るよ、マリア。だからウィーンに行っても僕のこと、忘れないでね!』
ヘルツ警部は子どもの声がーーーそれも聴こえるはずのない過去のーーー聞こえた気がして顔を上げた。空はすっかり夜になっていた。星すら飲み込むような真っ暗闇。だが、空よりもルートヴィヒが首を吊った部屋の隅の方がもっと暗かった。空の黒が「生きている黒」ならあれは「死んだ黒」だ。
ヘルツ警部はそこに積み重なっていた傘の残骸がついに愛と約束の歌を歌わなかったことを思い、悲しくなった。
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