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ヘルツ警部は苦い気持ちで布を被された遺体を見下ろした。高く結い上げられた美しい髪は乱れてもう見る影もない。ヘルツ警部は1人娘イリーネを思い出した。彼女は今、結婚してマリア・ヒルファー通りに住んでいる。帰ったら夜の独り歩きを止めるよう便りを出さなければ。
「鋭利な刃物で一突きか……酷いものだ……」
「まだ凶器は見つかっていないです」と部下のヒューゲル。
「持ち去ったか。まぁ、良い。死亡推定時刻は昨日の夜8時から9時の間で間違い無いんだな?」
「はい。それは……目の白濁具合と身体の硬直具合から多少の誤差なれど12時間前だろうとドクトル・カントが」
ドクトル・カントは以前は民間の医者だったが、ある事件をきっかけにウィーン警察お抱えの法医学者になった男でヘルツ警部は多大な信頼をおいている。
「ドクトルが言うなら間違い無いな。目撃証言は?」
「今の所無しです。しかし昨日は1日雨が降っていて寒かったし……」
「そして何の宮廷行事もなかった……」
ヘルツ警部がヒューゲルの言葉の先を引き取った。「それなのになぜ彼女は外に出た? 雨が降る寒い外に何の用で……?」
「婚約者のアイヒホルン子爵と逢引の約束でもあったのでは?」
「"婚約者"なのにこそこそと会う理由があるのか? そもそもこんな寒い中出歩かさせるなんて紳士、いや人間としてどうなんだ? 風邪を引くだろう」
「確かに……」
ヒューゲルが昨夜がどれだけ寒かったかを証言するように大きなくしゃみをした。ヘルツ警部は「大丈夫か」と一声かけるとまたマリア・ヴェッツェンベルクの遺体検視に戻った。袖口からポタポタと雫が垂れるのを見てヘルツ警部はあることに気がつき、キョロキョロと周りを見回した。
「警部?」
「傘はどうした? 目撃証言がないということは公園に行くのに馬車を使わなかったということになる。あんなに酷い雨だったんだから傘があったはずだ」
するとヒューゲルは言いにくそうにもじもじした。
「は、はい。ありました。もちろん。ただ……」
「ただ?」
「……壊されていました。真っ二つに、折られて」
そう言ってヒューゲルはその「真っ二つに、折られ」た傘を見せてくれた。
その傘は赤、紺、白のチェックのタフタ製の生地でで持ち手はマイセンの磁器に第一級のサファイアが金の縁取りにはめられている、芸術的、または成金的な傘でヘルツ警部には一生かけても買うことは出来ないだろう(最も慎ましやかなレオノーラにはこんな傘は相応しくない)。
「……」
(こんな高価な傘をなぜ犯人は壊すだけで盗まなかったんだろう?)
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