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「あれは盗めません」とアイヒホルン子爵フランツが泣き腫らした顔、厳しい表情で言った。
「……間髪入れずに断言なさいましたね」とヘルツ警部。ヘルツ警部とヒューゲルは今、アイヒホルン子爵邸に通され、あまりにも滑らかなソファーに居心地悪く座っていた。富裕階級層ならともかく、貴族の私邸に入る時はこういった事件の捜査の時でしかないのが警察官の寂しい性である。
「ここを見てください」
子爵はそう言って持ち手の、軸に1番近い箇所を指差した。そこには「FからMへ」と美しい金の文字花を縁取って書かれていた。
ヘルツ警部は瞬時でこれを理解した。
「これは……特注品なのですね?」
子爵は頷いた。「婚約が成立した記念に作らせたんです。晴雨兼用で1851年の大博覧会で優勝したE・シャラジャの元で修行した"大家"、カール・ヴァルトフォーゲルが直々に作ってくれたんです。署名入りですから持っているだけで犯人だと言うようなものです。親骨は鯨の骨、軸はトネリコできていてかなり頑丈なものだったのですが……」
「そのマイスター・ヴァルトフォーゲルは自分で店を持っていますか?」
「もちろん。弟子を50人抱えて、リングシュトラーセに店を構えています」
ヒューゲルはヴァルトフォーゲルの傘屋の住所を素早くメモした。
「婚約者だったマリア・ヴェッツェンベルク嬢のことはどの程度知っておりましたか?」
「……明るく、社交性に富んだ婦人でした。ダンスも上手で、礼儀も居住まいも正しく……気品も溢れて……」
あとはもう子爵が感極まってしまい、これ以上話を聞くのは難しかった。次にヴェッツェンベルク家を訪ねた。ヴェッツェンベルク邸は皮肉にも市立公園の目の前にある。公園と同じように屋敷も死んだように静まり返り、重苦しく陰鬱だった。ヴェッツェンベルク夫人その人が泣き腫らした顔で出迎えてくれた。
「こんな酷い顔で申し訳ありません……やっとあの子も人並みの幸せを掴むところだったのに……」
夫人はそう叫んでまた泣き出した。ヘルツ警部は必ず犯人を捕まえると約束した上で令嬢に何か不審な点はなかったかを聞いたが、そんなものはなかった。雨の日は決まって部屋に閉じこもっていたのにどうしてあの日出たのか分からないと言いはった。
使用人出入り口から出る時に靴屋の小僧たちと鉢合わせた。手に持っていた棒で危うく怪我をしそうになった。
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