合理性対人間性

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合理性対人間性

IT化は人間力を失う 具体例を話そう、私は先日A型作業所に行ってきた。そこはパソコン作業のみの仕事を扱っていてそこで働く人たちは目の前のパソコンだけをじっと見つめて、無口で目の前のキーボードだけをたたいている。なんの人間性も魅力も感じないロボットがロボットを叩いている(キーボード)ような感じがした。 今まで私がやってきた仕事は主に、土木、工場だった。土木の仕事ではケンカっパやい人、頭を叩かれたり怒鳴られたり嫌な人もたくさんいたが、休み時間になるときまってジュースをおごってくれったり(誰かひとりの人ではなく色々な人たちが)夜になるとこれまた色々な先輩が、居酒屋や風俗などに誘ってくる。日銭を稼ぎながらその日を目一杯に遊ぶ。そんな人たちが沢山いる世界で仕事をしてきた。そこには合理性、経済性はあまり感じない。野卑だがたしかに毎日充実していた。人間らしさが日々あった。しかし工場勤務になると全然違う。誰もジュースなど奢ってくれないし、風俗に誘う先輩もいない。毎日黙々と流れ作業の中でいかに自分を機械の一部にするか、なりきれるかをきそうような仕事をやってきた。動きは一秒いや0、5秒といっていいほどの動きをしないととても間に合わない、ねじ1個しめるのに機械のような正確さとスピードでやらなければならない。そこには人間性など入り込む余地がない。いかに自分を機械のように動かすかで精一杯である。会社は毎日改善を歌い、その中で合理性は鍛えられかわりに人間性を失う。IT化はますますそれを助長させるかのような印象をうける。なぜ印象なのか?それはこれから先も今までもコンピュータをどう使うかは人間が決める事だからである。経済中心に使うならば合理性はもっと助長されかわりに人間性を失う。それを人間的成長だと呼ぶこともできるかもしれない。合理性のなのもと私たちは、いや私は人間性を失いつつあるかもしれない。いかに合理的に毎日を生きるかをよぎなくされようとしている。さらに貧乏な人ほど貧乏ゆえにさらに合理的に生きていかなければならない。しかしお坊さんのようにならずに利益だけあげる魔法の杖があるかもしれない。それがIT化だ。この分野まだまだ未知なのである。先日あったひとがいっていた「ネット事業は、もう、霧の中を進んでいるかのよう」と、ネット事業だけでそうなのである。コンピュータ、IT全体ではもうわけがわからない。ただそれゆえに開拓の余地がある。底が見えないしろもので上手く使えば、日本はまだまだ成長するかもしれない。もしかすると数十年後、数百年後人間は神にではなく、コンピュータに祈りをささげているかもしれない。「私の息子が病気になりました、どうかコンピュータ様、私の息子を治して下さい」とそしてコンピュータに症状や状態を話す。コンピュータは全世界の症例、情報から病気の原因を探り出し光の速度で「では、こうしなさい」と告げる。なぜこのような話をしたかというと、これもIT化のもつ可能性だからである。今ではだれでもその形を簡単に思い浮かべる事ができるが。 さて最初は「機械化する人間」と題名を打っていたが、コンピュータの使い方次第では、人間性を失わずに、なおかつ賃金なども失わずにすみそうである。最後にこの分があっちにいったり、こっちにいったりしてるのは作者が(どっちの方がいいのか?)考えながらかいているからである。もしかして次文では考えが180度転換しているかもしれないがその時はその時である。又ぐだぐだと文を書いてなぜ考えがかわったかを、書いていこうと思う。最後の最後に合理的頭脳が進むと(子供は個人にとって不利益だからいらない、人を助けるのは不利益だからしない)という頭脳になってくるのではないか?という話はまた別の時にでも。。。
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