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午後3時の初恋
放課後、友だちと寄り道してから帰宅した午後3時。
井手 誠(いで まこと)は、自宅ドア前に立っていた。
「……」
短パンのポケットを探るも、カギがない。
灰色のドアは、カギ持たぬ者を通さない。
誠がどれだけ探しても、ポケットの中に固い感触を見つけることはできなかった。やがて手を止め、唇を噛む。
左方向から誰かの声が聞こえたのは、そんな時だった。
「あ、こんにちは」
「!」
誠がそちらを向くと、階段に制服姿の少女が立っている。下から上ってきた彼女は、向かいに住む立花 美咲(たちばな みさき)だった。
この集合住宅には、廊下というものがない。いくつかある階段の向きは建物の短縁と平行であり、建物側の踊り場に住居内部へつながるドアがある。
つまり誰かがドアの前に立ったままだと、階段を移動する者の邪魔になってしまう。住人同士の声掛けには、挨拶以外にも狭いスペースを互いに譲る合図という意味があった。
「ども…」
誠は小さな声で挨拶を返すと、目の前のドアに体を寄せる。背負っているランドセルが邪魔にならないよう、スペースをあけた。
「ありがと」
美咲は軽く礼を言い、階段を上る。上りきると、誠の背後にある立花家のドアへ近づいていった。
やがて、錠の外れる音が聞こえてくる。
「……」
誠の眉間にしわが寄る。あらためてポケットを探ってみても、彼の手がカギを見つけることはない。
ここで、再び美咲に声をかけられた。
「…カギ、なくしたの?」
どうやら、誠がドアを開けられないことに気づいたようだ。
彼が何も言えないでいると、続いて質問が飛んでくる。
「どこでなくしたか…わかる?」
「……ううん」
誠は首を横に振った。なくしたことへの悔しさが、じわりと胸の中に広がる。
美咲は彼の返事を聞くと、小声で何やらつぶやき始めた。
「交番…に行っても、子どもには返してくれないか。わたしが一緒に行ってあげてもいいけど、他人だから返してくれないのは同じ…かもしれないし……」
「……?」
漏れ聞こえる声が気になった誠は、ゆっくりと振り返る。
彼の顔とほぼ同じ高さに、美咲の顔があった。彼女はしゃがんだまま、ひとりごとをつぶやいていた。
「うーん、どうしたら…」
彼の動きに気づいていないのか、美咲のひとりごとはまだ続いている。そんな彼女を、誠はじっと見つめた。
美咲は前髪を左から右へ流しており、その毛束をヘアピンで留めている。ヘアピンは彼女の額右端の上にあり、小さなガーベラの飾りが先端にくっついていた。
もともと、誠はアクセサリーにも花にも興味はない。だがなぜか、美咲が身につけているヘアピンはかわいいと思えた。
次に彼は、白さに引かれて彼女の額へ目を向ける。白いだけでなくきれいなことに気づくが、その直後に別のものにも気づいた。
額のすぐ下にある、美咲の黒くて大きな瞳。
それが、誠を見つめていたのだ。
認識すると同時に、彼の目は吸い寄せられる。視界の中心がそちらへ移り、彼女と真正面から見つめ合う形になった。
「……!」
誠は、胸の奥でドキリと音が鳴ったのを聞く。
鼓膜を震わせないその不思議な音は、彼の体を震わせた。
一方、目の前にいる美咲も、誠が震えるのを見ていた。しかし彼女は、それを単なる驚きによるものだと思い込む。
まだ小さな子どもである彼をおびえさせないようにと、優しく微笑んでみせた。
その後で、そっと口を開く。
「…あのね、わたし考えたんだけど」
彼女の声は、かすかに弾んでいた。
「キミのお母さんが帰ってくるまで、わたしの家で遊ぶっていうのはどうかな?」
「え…」
思わぬ提案に、誠は戸惑う。
そこへ美咲はさらに言った。
「どうせうちもお父さん遅いし…ね? そうしよ」
「で、でも」
言葉を濁らせながら、誠はうつむく。提案を受け入れていいものか、困惑していた。
全く知らない大人から言われたのであれば、誠もすぐに断ることができる。母親から、そう教えられてきたからだ。
しかし美咲は向かいに住んでおり、親しくはないにしても知らない人ではない。さらに言うなら、自分からすれば大人っぽく見えるが大人ではないのだ。
誠が困惑する理由は、他にもあった。
「……」
視線が、少しだけ上がる。
彼はもう一度、美咲の顔を見たいと思っていた。
だがそうするのは、なぜかとても恥ずかしい。
誠は顔を上げきることができないまま、視界の中央にあるピンクのスニーカーと白い靴下をじっと見ていた。
「じゃあ、こうしよう」
誠が思い悩んでいる間に、美咲は考えを進めたらしい。
先ほど口にした提案を、あるものへと変化させた。
「わたしのお父さんが帰ってくるまで、ボディガードしてくれないかな?」
美咲は、提案を依頼へと変化させた。
これが誠に新たな驚きを与え、彼の顔を完全に上げさせる。
彼女と目が合った時、胸の奥でまたあの音が聞こえた。
「えっ?」
まさか正体不明の音を再び聞くとは思わず、誠は声をあげてしまう。
美咲はそれを、自分の言葉を聞いて戸惑ったせいだと思い込む。彼を安心させるために、こんな言葉を付け加えた。
「報酬…ごほうびは、お菓子ってことでどうかな。ダメ?」
彼女は両手を合わせ、顔とともに右へ軽く傾けてみせる。色気を前面に出さない媚びはしかしかわいらしく、誠の体温をにわかに上げた。
これが、彼の意識と言葉をぼやけさせる。
それまで幅をきかせていた困惑は、混濁の中に沈んでいった。
「ぼでぃ、がーど……」
「そう。わたし女の子だから、ひとりだと怖いんだ。だから、男の子のキミに守ってほしいなー…なんて」
「わ、わかった」
「やったー、交渉成立!」
美咲は合わせていた両手を離し、勢いよく頭上へ伸ばす。嬉しそうな声が、階段中に響いた。
「!」
大声に驚いた誠は、我に返る。
きょとんとした顔で見つめると、美咲は頭上へ伸ばしたはずの手をすでに下ろしており、口に当てていた。
どうやら声を発した本人も、まさか階段全体に声が響くとは思わなかったらしい。手で隠れていない頬が、ほのかに赤くなっている。
「……」
「………」
しばらく無言で見つめ合うふたりだったが、
「…ふふっ」
「あははっ」
やがてどちらともなく笑い出した。
笑い声が大きくなってしまわないうちに、ふたりは立花家へと入っていった。
立花家の間取りは、井手家とは真逆だった。当然ながら、置かれている家具や室内に漂うにおいもちがう。
誠にとって、ここはまさに別世界だった。
「あっ、こっち来て」
きょろきょろしていると、美咲に呼ばれた。
声がした方へ向かう。するとさらなる別世界、彼女の部屋にたどり着く。
「お菓子持ってくるから、ちょっと待っててね」
そう言って、美咲は出ていってしまった。
部屋の主に置いていかれた誠は、緊張で体を固くする。床に敷かれたカーペットの上に正座し、両手をひざの上に置いた。
なぜ正座をしたのか自分でもよくわからなかったが、そうしなければいけないような気がした。
そこへ美咲が戻ってくる。
「おまたせー…あっ」
スナック菓子とペットボトルのジュースを持ってきた彼女は、彼を見て思わず苦笑した。
「そんなに緊張しなくていいよ。足くずして。ランドセルも下ろしちゃって」
「う、うん…」
誠は顔を赤くしながら、美咲の指示に従った。
その後、報酬の前払い…つまりスナック菓子を食べ始めてから、ふたりはようやく名乗り合った。
外のドアに表札があるので名字は当然知っていたが、下の名前を知ったのはこの時が初めてだった。
「誠くん、かあ。カッコいい名前だね」
「べ、べつに…」
「わたしは、美咲っていうの」
「みさき…おねえちゃん」
「んふっ」
美咲はくすぐったそうに笑う。らんらんとした目で誠を見つめた。
「お姉ちゃんって呼ばれるの、いい…! じゃあ、わたしはまぁくんって呼んじゃおっかな」
「えっ?」
「わたしひとりっ子だから、弟がいるのってちょっと憧れがあって…って、あ!」
話の途中で、美咲は不意に立ち上がった。
あわてた様子で、部屋から走り出ていく。
「…あ」
誠も遅れて気づいた。
窓から雨音が聞こえる。
しかも、それはかなり騒々しかった。
「うわー、これヤバいっ」
ベランダのある方角から、美咲の声が聞こえてくる。
誠はすぐさま立ち上がると、彼女のもとへ走った。
「てつだう!」
「ありがと! じゃあ服どんどん投げるから、カゴに入れてって!」
ベランダに出ている美咲が、ハンガーから外した洗濯物を室内に投げる。誠はそれを空中でキャッチし、カゴに入れていく。
ふたりの連携は見事なもので、5分とたたず取り込みは完了した。
「ふぃ~…ありがとう、まぁくん」
ハンガーの束を手に持った美咲が、ベランダから帰還する。
前線で戦い切った彼女に、誠はねぎらいの言葉をかけようとした。
しかし。
「…!?」
美咲を見た瞬間、誠は絶句した。ねぎらいどころか、言葉そのものが出てこなかった。
彼女が着ている制服は夏服で、大部分が白い。その白い部分が雨に濡れたことで、あるものが透けて見えていた。
それは薄いピンクのブラジャー。
もともとその色なのか、上に着ている制服の白さが影響して色が薄まって見えているのかはわからない。
ただ誠には、その色がとても美しく感じられた。
ブラジャー自体は、母親が身につけているものを見たことがある。
しかし美咲のそれは、形は同じでも存在そのものがまったく違うように思われた。
「…んむっ……!」
誠は必死に声を抑える。
手で口を覆えば美咲にバレると本能的に察知したのか、口に力を入れることでどうにかそれを成し遂げていた。
努力は見事に報われ、彼女は今も視線に気づかない。
「もぉ~…天気予報、完全にハズレじゃん……」
美咲は小声でぼやくと、ベランダへ続くガラス戸を閉めるために後ろを向いた。
背中側は濡れておらず、制服本来の白い生地が見える。
この白さが、誠を我に返らせた。
「……」
美咲のブラジャーを見てしまった。
なんだか自分が、とても悪いことをしたような気がした。
その感覚は誠の心をチクリと刺して、美咲を視界の上部から追い出してしまう。つまり、彼はあわてて下を向いた。
ここで洗濯カゴが目に入る。
積まれた衣類の一番上にある白いものに、視点が吸い寄せられる。
それは、真っ白なブラジャーだった。
「わっ!?」
誠は思わず声をあげてしまう。すぐさま左を向き、白いブラジャーも視界から追い出した。
やがて、美咲の不思議そうな声が聞こえてくる。
「まぁくん? どうしたの?」
「……」
まさか美咲のブラジャーを見て声をあげたなどとは、口が裂けても言えなかった。誠は顔を真っ赤にして、黙り込むことしかできない。
しかしやがて、美咲の方が気づく。
洗濯カゴの白いブラジャーを見つけたのだ。
「あ…」
だが、彼女が怒ることはなかった。
「…ごめんね、まぁくん。変なもの見せちゃって」
美咲は苦笑しながら、なぜか彼に謝った。
意味がわからない誠は、顔を彼女に向ける。
すると再び、透けた制服と薄いピンクのブラジャーが目に入ってしまう。
「わあっ!?」
誠は両手で自分の目を覆った。
この行動でようやく、美咲は制服が透けていることに気づいた。
「あっ? あー…なんか、ごめんね?」
透けた箇所を両手で隠しはしたものの、彼女が怒ることはやはりなかった。
それからのことを、誠はあまり憶えていない。
美咲がルームウェアに着替えていたり、彼女と何かの話をした記憶はあるのだが、彼の脳裏にはずっとふたつのブラジャーがチラついていた。
やがて誠の母親が帰宅し、美咲はその音を聞く。彼女が外へ出て母親に声をかけたことで、甘くぼやけた時間は終わりを告げた。
別れ際、美咲は少し体をかがませながら笑顔で手を振ってくれた。
誠は恥ずかしさからまともに顔を見ることができなかったが、それでも手を振り返すことは忘れない。
ブラジャーを見た、見られたという秘密を共有したことで、この日からふたりはただの隣人ではなくなった。
「なつかしいな…」
それから10年以上がたったある日。
大人になった誠は、アルバムに収められた写真を見ている。
すぐ前には美咲がいた。彼女は、彼に背中を預ける形で座っていた。
「あっ、これ川に行った時のヤツだ」
彼女は楽しげに言いながら、数枚並んだ写真のうち1枚を指差す。釣り上げた魚を手に誇らしげな誠と、彼が持っている魚を青い顔で見つめる美咲が写っていた。
彼女が指さしたものに限らず、どの写真にもふたりが一緒に写っている。というより、一緒にいる写真だけを集めたのがこのフォトアルバムだった。
ページが進むにつれ、ふたりの身長差はなくなっていく。
やがて誠が美咲の背を追い抜き、見上げ見下ろす関係は逆転した。
「生魚さわるのが怖いって、美咲泣いてたよな」
「な、泣いてない! 怖いのはそうだったけど…今はもう平気だし!」
「そうだっけ? あはは」
誠はいたずらっぽく笑うと、美咲を後ろから抱きしめる。
次に口を開いた時、その声は優しく深いものに変わっていた。
「2冊目からは、3人で…だな」
「……うん」
答えた美咲は、アルバムを閉じる。その表紙には、チャペルでフラワーシャワーを浴びるふたりがプリントされていた。
実った初恋は、新たな生命を息づかせる。
ふたりは喜びに包まれながら、そっとキスを交わすのだった。
Fin.
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