無銭飲食

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無銭飲食

 アルトリオが所属する、ストラル広場前分署から繁華街の間には、商店街がある。  彼は今その商店街で、人の往来を眺めていた。 「何度見ても不思議だな……亜人」  彼は目の前を通っていった毛むくじゃらの狼男を見て、そうつぶやいた。  出勤時にも見かけたので、亜人を見るのはこれが初めてではないが、前世では創作の世界にしかなかった生き物が、普通に街を歩いているのだ。  視覚的衝撃は大きなものだった。  狼男の耳がピクリと動き、足を止めた。  狼人族の優れた聴力が、アルトリオのつぶやきを捉えたのだ。  彼はこの亜人も見たことのない田舎者をからかってやろうと牙をむき出し、振り向いた。 「あっ……」  振り返ったそこにいたのは、帯剣の柄に軽く手を掛け、興味深そうにこちらを見ているアルトリオだった。  相手が衛兵だと気づいた狼男は首をすくめ、バツが悪そうにそそくさとその場を離れた。  衛兵というのは、彼の前世でいえば警察に当たる職業だ。  警察をからかう度胸のあるものなんて、そうそういるものではない。  ごく普通の反応だった。  アルトリオはその反応を見て、あごをさすった。  彼にとっては新鮮な反応だった。  前世の彼は、一般人からは、恐怖と嫌悪こそ抱かれたが、尊敬と敬畏を抱かれたことはなかったのだ。  案外、衛兵も悪くないのかもしれない。  一瞬そう考えたが、すぐに首を振って否定した。  公僕なんて冗談じゃない。  それに自分が真面目に仕事している姿なんて、アルトリオには想像できなかった。  時間は昼前。  朝飯時を過ぎてはいたが、道端にはまだ朝食を売っている屋台が多くあった。  空気中を漂うおいしそうな匂いに、アルトリオはすでに朝食を済ませていたが、それでも空腹を感じた。  彼は手に持っていた肉まんを頬張った。  少し熱かったが、あふれる肉汁が口内に広がった。  中華のような、そうでないような、前世では食べたことのない、独特だが、おいしい味だった。 「これはこれで……うまい!」  彼は思わずそう口に出した。 「あの……衛兵さん……衛兵さん……衛兵さん!」  後ろから男の声がした。  アルトリオは衛兵と呼ばれ慣れていないため、最初は自分のことだと気づかず無視していたが、何度も呼ばれたことで、ようやく自分を呼んでいるのだと反応できた。 「なんだ?」  食事を邪魔された彼は眉をひそめ、振り返った。 「お代をいただいてないんですが……」  男は少し緊張しているようだった。  例え何もやましいことをしていない人でも、警察の前に立てば緊張してしまう。  この特性はどうやらこの異世界でも変わらないようだ。 「お代?」  彼は首をかしげ、数秒考え、ようやく状況を理解した。  この屋台の店主らしき男は、いつの間にか彼の手にあった、この肉まんのことを言っているのだ。  これは彼がおいしそうな匂いにつられ、無意識のうちにこの男の屋台から取ったものだ。  こそこそ盗んだわけではない。  取ったのだ。  堂々と、自然に、当然かのごとく、取ったのだ。  そのあまりに自然な動作に、店主はあぜんと固まり、彼が数歩歩き、肉まんを頬張り、感想を言うまで、頭が真っ白になって、フリーズしていた。  そしてアルトリオの感想の声によってわれに返った店主は、彼を呼び止め、代金を請求した。  こういうことだ。  アルトリオに盗んだという意識はなかった。  これは彼にとっては、いつもの、当然の行動だった。  ファミリーの幹部であった彼は、当然ながら常に敵対組織に命を狙われていた。  なので彼の行動範囲は、もっぱら自分が支配していた地域だった。  そしてその地域で、彼に金を請求する度胸のある輩などいなかった。  度胸があったやつは皆、土の下に埋められた。  欲しいものは取り、気に入らないやつは殺す。  彼はあの地域の頂点に立つ暴君だった。  しかし今の彼は、かつての悪名高い幹部ではなく、一介の衛兵だ。  この様は振る舞いは、到底許容されるものではない。  では金を払うのか?  バカな。  ありえん。  彼が金を払うときは、払ってやってもいいと感じたときか、相手が自分よりも強いときだけだ。  残念だが、この中年男性はそのどちらにも当てはまらなかった。  しかしアルトリオはもめ事を起こすつもりもなかった。  トールへの反抗は最悪の場合でもクビになるだけだが、窃盗は逮捕だ。  彼は乱暴で、粗暴な人間だが、バカではない。  ただのバカなら、前世で幹部にのし上がることもできなかっただろう。  彼は目を細め、少し考えると、すぐに作戦を決めた。 「静かにしろ、極秘任務中だぞ……!!」  彼は店主をにらみつけ、声を低くして言った。 「す、すみません……」  衛兵にすごまれた店主は、首をすくめ、同じように声を低くし、謝罪した。  アルトリオは思わず笑いそうになった。  警察(この世界では衛兵だが)の目線から見た一般人が、とても滑稽なものだったからだ。 「俺は今手が離せない。すまないが代金は近くの衛兵署に請求してくれ。責任者は……」  彼はトールの名前でも使おうと思ったが、ふとある人の名前が浮かんだ。 「ローザだ」  彼は頭に浮かんだ名前を、そのまま口に出した。  ローザというのは、アルトリオと同じ分署に所属している、同期の女だ。  衛兵学校の同期であり、同じ研修チームだったということもあって、親しいとまでは行かないが、顔を合わせたら雑談をするくらいには仲の良い友人だった。  まだ巡査である(昇進予定ではあるが)彼とは違い、彼女はすでに巡査長に昇進していた。  巡査長への昇進には、一般的には四五年はかかるのが通例だ。  アルトリオみたいに、命を張って大きな成果を上げるという手もあるが、彼女にそういった経歴はない。  はっきり言って異常な昇進速度だった。  一部では、彼女が署長の愛人をやっている、といううわさすらも流れていたが、真偽の程は定かではない。  きっと彼女の給料袋は、アルトリオのものとは違って、パンパンに膨らんでいるのだろう。  国民の血税を、そんな汚い手でかすめ取っている彼女の悪行を許すわけにはいかない。  そう考えたアルトリオは、胸に正義感があふれるのを感じた。  これが衛兵としての使命感というやつか。  他の衛兵が聞いたら問答無用で斬りかかってきそうなことを考えながら、アルトリオは悦に入っていた。 「はい、了解です……! 任務頑張ってください……!」  謎の緊迫感を出してうなずく店主に、思わず吹き出しそうになったアルトリオは、笑いをこらえ、うなずくと、足早にその場を離れた。  この手が通用するとわかったアルトリオは、その後も全く同じ手法で食べ歩いた。  十数分後、彼は満足気におなかを擦りながら、串カツの串を爪よう枝のように使い、歯に挟まった野菜のカスを取りながら、悠々と商店街を歩いていた。 「おっと、忘れるところだった」  彼はそこで自分の当初の目的を思い出した。 「腹はもう満足だ、次は息子にもいい思いをさせないとな」  手に持った串を道の真中にポイ捨てしながら、彼はそうつぶやき、きびすを返した。  しかし歩き出す前に、彼は呼び止められた。 「アルトリオ!」  声の方に目を向けると、息を切らしながらこちらに走ってくる一人の青年がいた。  見たことのある顔だった。  記憶の中を探ると、その青年は近所に住んでいるごろつきのようだった。  名前は……確か、グルドだったか。 「アルトリオ……やっと見つけた」  グルドはアルトリオに走り寄ると、膝に手を付き、息を整えた。  しかしかなり急いで走ってきたようで、なかなか落ち着けなかった。  彼には一秒でも早く伝えたいことがあったようで、息も切れ切れに口を開いた。 「ナコルちゃんが……ナコルちゃんが、大変なことに……」  アルトリオの顔色が変わった。
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