初出勤

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初出勤

 場が凍る、という言葉は、まさにこんな時に使われる言葉だろう。  分署にいた衛兵たちは手を止め、アルトリオに注目した。  全員の顔に驚がくがあった。  信じられない。  それが彼ら全員の、今の気持ちだった。  あの少し気の弱い、真面目な優等生だったアルトリオが、上司に反抗したのだ。  それもあれ程乱暴な口調で。 「もう一度言ってみろ」  巡査部長であり、この分隊の隊長でもあるトールが顔を赤くして言った。  その眼光は、はたから見ていた者をも震えさせるほど鋭いものだったが、にらまれている当の本人であるアルトリオは、まったく気にしていないようだった。  それどころか、彼は笑っていた。  あざけるように笑っていた。 「聞こえなかったのか? ならもう一度言ってやる」  と彼は言いながら、手を頭の後ろで組み、足を机に乗せた。 「クソくらえだ。俺はやらねぇ」  そう続けた彼は椅子を後ろに倒し、ギシギシと音を立てて揺れ始めた。  信じられないほど失礼な態度だった。  間違っても公務員である衛兵が、上司の前で取って良い姿勢ではなかった。  鈍い音が響いた。  トールの拳が机を打った音だ。  彼の怒号が響く前に、分隊の潤滑油であるノイルが二人の間に入った。  分隊内最年長であり、その真面目さ故、トールからの信頼も厚い彼しか、この場に割って入れるものはいなかった。 「まぁまぁ、落ち着いてください、隊長」  と彼は言いながら、両手の手のひらをトールに向け、なだめた。  立ち上がろうとしたトールの動きが止まったことを確認し、彼はアルトリオを振り返り、今のうちにあやまれ、とアイコンタクトした。  しかしアルトリオは顔を上げ、天井の模様を研究しており、彼のアイコンタクトの意味に気づくどころか、彼を見てすらいなかった。  仕方なく、彼はトールの方に向き直った。 「きっとアルトリオも調子が悪いんですよ。ほら、けがから復帰したばかりですし。掃除なら私がやりますから」  その言葉を聞いたトールは、上げかけていた腰を再び下ろした。  アルトリオがけがをした原因と、それがもたらした利益を考えると、これくらいのことは我慢してやっても良い。  そう考えたのだ。  座りなおしたトールを見て、周りで事の成り行きを見守っていた皆もほっと胸をなでおろした。  確かにアルトリオの行動は無礼極まりないものだったが、病み上がりの彼が殴られるところは、誰も見たくはなかった。  事のいきさつはこうだ。  三カ月前、スラム街で行われた、大型犯罪組織の殲滅(せんめつ)作戦において、彼はおとり部隊に志願し、作戦成功に大きな貢献をした。  しかし敵の戦力が予想以上に多かったせいで支援が遅れ、彼を含めた五人からなるおとり部隊は三人死亡、二人重傷という大きな被害を受けた。  アルトリオはその生き残った二人のうちの一人だった。  彼のけがは重く、三カ月にもわたる療養を余儀なくされた。  不幸中の幸い、というべきか、彼のその勇猛さは上層部の目に留まり、まだ二年目というた経歴の浅さながらも巡査長への昇進が決まった。  それだけでなく、そんな彼を育てたということで、分隊全体の評価も上がったのだ。  そしてその、分隊全体の評価向上が、トールに怒りをおさえさせた原因だった。  あの作戦から約三カ月たった今日。  ようやく全快したアルトリオが、再び出勤した。  そして朝一の担当地域発表の時、トールは親切心から病み上がりの彼に外回りではなく、楽な署内の掃除(清掃業者に任せられないデスク周りなどの場所)を任せようとした。  しかしそれをアルトリオは暴言とともに拒否した。  で、今に至るというわけだ。  深呼吸をし、無理やり怒りを飲み込んだトールは、震える指で入り口を指した。 「ノイルに免じて処分は勘弁してやる。だが出ていけ。頭が冷えるまでは自宅謹慎だ」 「へっ」  厳しさで有名なトールにしては、これ以上にない寛大な処分だったが、アルトリオはそれを鼻で笑った。 「言われなくとも出てってやるよ。公僕なんてやってられっか」  そういいながら彼はトールに中指を立て、怒号を上げるトールと、なだめるノイルと、がく然としたまま固まり続けている同僚を残し、部屋を出た。  分署を出たアルトリオは見慣れた、しかし見慣れない町並みを見渡した。  例えるなら、テレビではよく見る景色を、初めて実際に目にするような、そんな感覚だ。 「転生だと? クソが」  と彼は言って、玄関にペッと唾をはいた。  そう、彼は、彼の言葉の通り、この世界の人間ではなかった。  しかし同時に彼の言葉は間違ってもいた。  彼のこの状況は正確には転生ではなく、転移、もしくは憑依(ひょうい)、と呼ばれるジャンルに属されるだろう。  もっともそんなことなど、アニメや小説とは無縁の世界で生きてきた彼にとっては、知る由もないことだった。  彼は前世、世界最大級のマフィアの幹部だった。  一構成員から暴力と漢気で成り上がり、つかみ取るった地位だ。  強盗、殺人、密売。  組織の利益になることなら、何でもした。  見返りももちろん、大きなものだった。  酒、金、女。  全てを欲しいがままにできた。  そんな生活に慣れ、満足もしていた彼にとって、この転生は災難でしかなかった。  命を張って築き上げてきた全てを、一瞬にして失った。  やっとつかんだ成功を享受する権利を、何の前触れもなしに奪われた。  絶望にも近い感情を抱いたが、彼は耐えた。  この世界で、今度は自分だけの地下帝国を築く。  そう決めたのだ。  そう決めないとやってられなかった。  その決心は後に語るとして、彼は今、行き場を失っていた。 「帰る……わけにも行かないか」  と彼は言って、仕方なさそうな表情をして、頭をかいた。  何が彼をこんな表情にさせるのか。  それは家にいる一人の少女ーーナコルだ。  彼女はこの体の前任者ーー旧アルトリオーーの、血のつながった肉親、妹だ。  つまり当然ながら、今は彼ーー新アルトリオーーの妹でもあるということだ。  アルトリオと同じ衛兵だった両親が極秘任務で命を落として以来、彼は妹と二人で支え合って生きてきた。  なぜ新アルトリオがこんなことを知っているのか。  それは新アルトリオの魂が旧アルトリオに乗り移ったとき、その肉体だけでなく、記憶もともに継承したからだ。  幸い、といっていいのか、旧アルトリオはけがを乗り越えられず死んだのか、人格らしきものは残っておらず、新アルトリオはテレビを見るような感覚で記憶を受け取ったため、人格がゆがむことなく、完全な状態で乗り移ることができた。  しかし人格は変わらなかったとはいえ、何も変化がなかったわけではない。  それは妹である、ナコルへの感情だ。  新アルトリオはいくら幼い頃から見ていたとはいえ、テレビ(記憶の引き継ぎ)で見ただけの少女に情が湧く男ではなかった。  しかし二カ月間、口を開くことすらできないほど衰弱していた時期に、毎日見舞いに来て、退屈させないよう話をしてくれた少女相手となると、話は違った。  幼い頃から見ていた少女。  自分を兄と慕い、励し続けた少女。  それは冷たく、残忍で、孤独だった彼の心を開かせるには、十分なものだった。  ナコルは学生だ。  なので平日の日中は家にいない。  しかし今日は週末、学校は休みだ。  アルトリオのけがの影響もあり、成績が少し下がった(ほんの少しだ)彼女は、遅れを取り戻そうと家にこもって勉強しているはずだ。  今帰ってしまうと、きっと心配させてしまうだろう。  アルトリオは気遣いができる男だった。  ……少なくとも彼はそう自負していた。 「しょうがねぇ、下の処理でもしてくるか」  そう言って彼は下卑た笑いを浮かべた。  旧アルトリオの方は女性経験のないひよっこだったが、新アルトリオはもちろん違う。  彼は立派な男だ。  けがの間の、二カ月に及ぶ禁欲期間は、そろそろ彼を我慢の限界へと追い込んでいた。  こんな朝からやってる風俗なんてあるのか、と一瞬首をかしげたアルトリオは、目を閉じ、記憶を探ったが、どうやらいらぬ心配だった。  この世界の繁華街は、生活リズムが不安定な冒険者たちによって、一日中にぎわっていた。 「へへへ、異世界の女ってのはどんな具合だ?」  そんな下衆なことをつぶやきながら、彼は記憶の中から最寄りの繁華街の場所を引っ張り出し、鼻歌を歌いながらそちらへ向かった。
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