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7
何ごともない日常が、ひと月近く続いた。
工事は終わったが、その後もゲイブは教会に通っている。大抵は仕事を終えてから。雨の日は、もっと早くから。
行き帰りの道で、ゲイブは西の塔を見上げる。レアディールがいる。彼はこちらに気付いているようだったが、手を振ることはなかった。ゲイブは……手を挙げそうになり、寸前でやめるということを、数度繰り返していた。
目が合っているように思う。レアディールはきっと、ゲイブが手を振ることを望んでいるのだろう。そしてゲイブも、彼に手を振りたい。
しかし――。
――もうあなたにお手紙を書くのはやめにします。
あれは別れの宣告だった。ゲイブはレアディールを捨てたのだ。そんな自分が、いまさら彼に手を振りたいだなんて……。
ゲイブは無理に視線を引き剥がして教会に入る。
教会に来るのは読み書きを習うためだった。いまでは難しい文章でなければあまり途切れることなく読めるようになっていたし、書く方も上達していた。
が、虚しさが底に沈んでいる。
「学問はいつか必ずあなたを助けてくれますよ」
神父はそう言う。正しいのだろうと思う。けれど、もはやレアディールから文は来ず、こちらからも出すことはないというのに、読み書きが上達したところでなんになろう。
神父から聖典を渡される。教科書である。頁を繰るが、何も頭に入ってこない。考えるのはただ、別れを告げた人のこと……。
そんな寂しい日々の、ある夕方。
ゲイブは教会に来ていた。
この日はレアディールを見かけなかった。いや、今日ばかりではない、昨日も一昨日も見ていなかった。体調を崩しているのだろうか。彼はあまり身体が丈夫ではないようだ。
このところよくそうしているように、ゲイブは神父の前に座り、聖典を開いていた。二、三、文章を書き写してみる。それを、神父が上から見下ろしている。
その時だった。教会の扉が開いた。
ゲイブは我知らず声を上げ、腰を浮かせた。椅子が床に倒れる。入ってきたのは、あの初老の男、レアディールの召使いだった。
封筒を持っている。レアディールの手紙だ。
だが、男はゲイブを一瞥しただけで、その手紙を神父に差し出したのである。
「あなたにです、神父様」
神父は言葉では答えなかったが、疑問を差し挟むこともなく受け取った。
疑問を口にしたのは、ゲイブである。
「待ってくれ。神父様に? なぜ?」
俺にではないのかと、そこまでは言えなかったが。
「私は存じません。この書簡を街の教会の神父様にと申しつけられただけですので」
相手は慎重に答えた。そのまま踵を返し、出ていってしまった。
ゲイブは信じられぬ思いでその背中を見送っている。重たい扉が閉じた後になっても、なお。
振り返った時には、神父は便箋を開いて読んでいた。行に沿って視線が動くのがわかる。やがて便箋の下端、署名があるであろう辺りで、神父の目は止まった。
「何が書いてあるのですか?」
ゲイブは問い質さずにはいられなかった。
神父は逡巡しているようだった。そのうちに、暗い、悲しげな声音で、話し始めた。
「あなたにはお知らせしない方がよいだろうと思っていたのですが……。レアディール様は、先日亡くなられたそうです」
ゲイブは目を剥き、言葉を失った。背筋が凍りつく。自分がどこにいるのかわからなくなった。
「表向きはご病気ということになっておるようです。ですが……」
神父はその先を言わなかった。
遠く、彼方から響いてくるようなその声を聞きながら、ゲイブの意識は暗闇に落ちていく。
死んだ? あの方が? 嘘だ。
しかし、神父は嘘をつくような人ではない。神に仕える身として、常に真実を話せという戒律があるはずだ。
では、あの方は本当に死んだのか? 本当に? なぜ?
神父は病気だと言った。いや、違う、病気ということになっていると言ったのだ。「ですが」と言いかけて、そこでやめた。それはすなわち……。
殺されたのだ。
レアディールの母親は領主によって処刑されている。さらに、現在の奥方は、前妻の息子を毛嫌いしていたようだ。折りしも奥方の子どもたちが成長してきたところで……。
ああ、ちくしょう。そんな惨いことがあってたまるか。
「嘘だと言ってください、神父様」
ついにゲイブは言った。
神父は何も言わず、レアディールの手紙を差し出してきた。
ゲイブは震える手でそれを受け取る。宛名はなかった。
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