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その手紙を受け取ったのは、肌寒い秋の日のことだった。
手触りからしてそれとわかる、上質な紙だった。封筒は象牙色。蜜蝋で封印が施されている。しかし紋章はなく、丸いものを押しつけたような平らな凹みがあるだけだった。
ゲイブは不審げに視線を上げる。
彼の前には、きちんとした身なりの初老の男が立っていた。
「本当に俺になのか? 身に覚えがないんだが」
ゲイブは言った。
「間違いなくあなたにです。教会の仕事をしている、ここに傷のある方と伺っておりますので」
初老の男は、右目を指しながら答えた。
確かに、ゲイブは幼い頃の事故で右目に深い傷を負っており、隻眼であった。教会の仕事をしているというのも合っている。彼は左官職人だった。先々月の嵐で街の教会が一部損壊したため、修繕工事を行っているのだ。
いまもその作業中である。神父に呼ばれ、何ごとかと来てみたら、この初老の男に手紙を渡されたのだ。
だが、心当たりがない。
「差出人は誰なんだ? なぜ俺に手紙を?」
ゲイブが重ねて尋ねると、初老の男はため息をついた。
「差出人は私の主人です。それ以上はお答えすることができません。おそらく、手紙をお読みいただければおわかりになることと存じます」
ゲイブは顔をしかめる。
「俺は字が読めない」
初老の男はうんざりした様子で頭を振った。
「受け取った後どうなさるかはあなたのご自由にどうぞ。私はただ、どうかあなたに届けて欲しいと懇願されましたので、従ったまでです」
相手が主人ならば、その言葉は「命令」であろう。それを「懇願された」とは、妙な言い回しであった。口ぶりから見てこの男は身分ある者の使用人らしいが、名乗れないとは穏やかではない。
「お渡ししましたよ。それでは、私はこれで」
初老の男は、軽く会釈をすると去っていった。
残されたゲイブは、薄気味悪い思いで手紙を見つめている。
不可解な話だった。何か――例えば、身分のある者の気に障るようなことをしただろうか? いや、少なくとも慎ましやかに生きてきたことだけは胸を張って言える。第一、咎め立てするのだとしたら、手紙というのはおかしい。即刻引っ立てられるだろう。そうでないということは、何か――何かを、密かに伝えようとしているのだ。
では、何を?
わからない。何も思い浮かばなかった。
手紙を裏返してみても、署名はない。こんなもの、開けるかどうかすら迷う。受け取ったら好きにしろということだから、捨ててしまおうかとも思った。そうしなかったのは、何が書かれているのか気になったからだ。
ゲイブは手紙を懐に捻じ込んで、しばらくは仕事をこなした。手を動かしながらも、手紙のことが頭から離れなかった。
一日の作業が終わるのは夕方である。親方に肩を叩かれた後で、ゲイブは神父を捜しにいった。
この教会の神父は元気な老人で、修繕中の教会にも毎日足を運んでいる。職人たちをねぎらい、時には飲み物や焼き菓子などを振る舞っていた。
神父は外壁の傍で信徒と話をしていた。近づいてくるゲイブを見て、さりげなく話を終えた。
「客人は帰られましたか?」
あの初老の男が来たのは昼間のことだというのに、神父はおっとりと言った。
「ええ。変な手紙を渡されました」
ゲイブは署名も紋章もない手紙を掲げた。
「ほう。中身は確認なさいましたか?」
「いいえ。俺は字が読めないんです。神父様に読んでいただけないかと思いまして」
「どれどれ」
神父は木陰にゲイブを手招きした。家路につく職人たちや、街の人々からは、見えにくい場所だ。
手紙の封が切られる。中に入っていたのは、ふたつに折りたたまれた、上品な便箋だった。
神父は手紙を広げたが、ふと眉をひそめた。
「おや……」
「どうしたんです? 何か、よくないことでも書かれていますか?」
神父は首を横に振った。
「いいえ。ただ、差出人のお名前に驚きましてね」
「誰なんですか? これを持ってきた奴は、差出人の名前は言わなかったんです」
「レアディール・クランバインという名前が書かれています。ご存知ですか?」
「クランバイン?」
ゲイブは青ざめた。この街に住んでいる者なら、誰しもクランバインという名前には覚えがあるものだ。それは領主の家名だからである。
「レアディール様は領主様のご子息ですね」
神父が言った。
「領主様の息子がなんで俺なんかに手紙を? わけがわからない! 俺は何もしていません!」
「落ち着いて。あなたが考えているような悪いことは書かれていません。読みましょう」
神父はそっと、厳かに、手紙を読み始めた――。
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