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翌日。
ゲイブは西の塔を見ないよう、意志の力を総動員していた。
あんな恋文をもらったせいだ。あれは昨晩、自宅の屑入れに捨てた。しかしあの内容は、忘れようにも忘れられるものではない。現場に着けば思い出して、どうしても塔を意識してしまう。
レアディールは、今日もあの塔からゲイブを見ているのだろうか。
そう考えると、背筋が寒くなった。仕事に集中しようと壁に漆喰を塗り込めるが、背中にべったり視線が張りついているように思えて、ゲイブはついに振り向いてしまった。
すると――西の塔の、こちらを向いている窓に、誰かの影が映っているのが見えた。が、一瞬後にはそれが消えてしまった。隠れたのだと悟るまでに、少しかかった。
「なんなんだ!」
ゲイブはつい口に出して怒ってしまう。恥ずかしいと思うのならば、始めからあんな手紙など書かなければいい。嫌な思いをさせられたのはこちらの方だ。
「どうかなさいましたか?」
神父だった。この神父も嫌な奴だった。昨日の今日で、ゲイブの様子を窺っていたに違いないのだ。
「どうもしませんよ。ただちょっと虫の居所が悪いだけです」
「そうですか」
神父はわざとらしく首を傾げた。
「少しお話しませんか?」
「俺は仕事中ですよ」
「わかっています。許可は取ってありますので」
無害そうに見えて、抜け目のない爺さんだった。ゲイブは眉間に皺を寄せつつ、神父の後を追う。
「今日は私も西の塔をずっと見ていたのですが、なるほどレアディール様は工事をご覧になっておいでのようでしたね」
神父が言った。
「そうですか。俺は知りません」
ゲイブは苛立ち紛れに返した。
「そうですね。いずれにせよ、あなたもレアディール様も、忘れた方がお互いのためでしょう」
神父は小さく息を吐いた。
「痛々しい恋文だと昨日申しましたが、本当にそう思いますよ。あの方はおそらくあの塔を出ることはないでしょう。あなたを慕っているのだとしても、どうしようもないのです。あの方もおわかりのはずでしょうに、なぜ恋文など書いたのか……」
「神父様は、昨日は返事を書けとでも言いたげでしたよ。今日になると全く違うことをおっしゃるんですね」
これは悪意に過ぎたかもしれない。だが、ゲイブも腹が立っていた。言い返さずにはいられなかった。
神父は頷く。
「ええ。申し訳ありませんでした。私はつい、あの方を哀れに思ってしまったようです」
「哀れ? なぜですか? レアディール様は何不自由なく暮らしているんでしょう。働かなくても食っていけるし、読み書きだってできる。のんびり生きていられて結構なことじゃないですか」
「ええ、そう、そうですよ」
どこか投げやりに、神父は吐き捨てた。
ゲイブはさっと西の塔を睨む。また、誰かがカーテンの影に隠れるのが見えた。
あんな恋文を書いたくせに、レアディールはゲイブの視線を受け止める勇気もないらしい。
「それで? あの王子様は、どうして幽閉されてるんです?」
問うたのは、ただ苛立ちに駆られてのことだ。本当に知りたかったわけではない。
呼吸をふたつする間、神父は沈黙していた。それから、言った。
「王子様ではありませんが……。レアディール様ご自身の罪ではないのですよ。あの方の母君、領主様の前の奥方様が、不貞を働いたためにお相手ともども処刑されましてね。レアディール様はまだ幼かったために、幽閉という処分で死罪だけは免れたとのことです」
「たかが不倫で処刑とは、さすが領主様は男らしい」
ゲイブの強烈な皮肉に、神父は苦笑する。
「領主様ともなれば、我々庶民の物差しでは計れぬこともあります。なんにせよ、領主様について批評するのはあまり褒められた行為ではありませんよ」
「話を始めたのは神父様ですよ」
「そうです。あの手紙を受け取ったからには、あなたには知る権利があると思いましたから」
「俺はあまり聞きたくありませんがね」
神父は眉間を押さえた。
「そう怒るようなことでしょうか? たかが手紙ではありませんか」
「相手が問題でしょう? 領主様の息子からあんな手紙をもらったって、俺だって困ります」
「でしょうね」
この不毛なやり取りで、神父は五歳も十歳も老け込んだようだった。いつになく背中が丸まっていた。
それを見ていると、爺をいじめているような気分になってくる。
ゲイブは咳払いした。怒る相手は神父ではないと思い直した。ともかくも話は聞いておくべきなのかもしれない。
「それで……レアディール様ですが。幽閉された時は、おいくつだったんですか?」
神父は深々と嘆息した。
「六つです。その頃、何度かお姿を拝見したことがありますよ。実に愛らしいお子様でした。前の奥方様そっくりの、澄んだ緑色の瞳をしてらして……大人になられたら、さぞや若い娘たちを騒がせる方におなりだろうと思ったものですが」
神父の目がゲイブに向いていた。若い娘を騒がせるはずだった貴公子が、なぜか左官職人になど懸想しているのだった。
「お気の毒に」
ぼそぼそと、ゲイブは取り繕った。
見上げた先では、カーテンが揺れている。西の塔。分厚い布の後ろに隠れている、領主の息子。
「今年で二十におなりのはずですよ」
ゲイブの視線を追い、神父が言った。
だとしたら、十四年もの間塔に閉じ込められたままだということになる。母親の不義を責められ、その咎の一端を負わされて……。
――私に気付いてくださった方がいた、それだけで、私は天にも昇るような心持ちでした。
あの手紙に、レアディールはそう書いてきた。「生涯ただ一度のこと」とも。
彼は誰にも気付かれなかったのだろうか? 人を愛したこともない? それで、自分を振り返り、手を振った男に恋をしたというのだろうか。
遠くから見ただけの男に。
相手の男はそれを、覚えてすらいないというのに。
「だけど、城ではかしずかれているんですよね? ここに手紙を持ってきた奴だって、レアディール様を主人だと言っていましたよ」
「もちろん世話はされているでしょう。それでも、彼らはクランバイン家の使用人です。レアディール様ご本人にお仕えしているわけではありません」
「じゃあ、なんで手紙を届けたんですか?」
「届けたとしても害がないと判断されたのでしょうね。つまり中身は確認されています。あなたのことも調べられているはずですよ。それで、おそらくはただの戯れ言と片付けられるだろう――とでも考えたのではないでしょうか」
ただの戯れ言。
違いない。実際ゲイブはあの手紙を無視している。このまま返事もせず、また二度と手を振ることもなければ、そのうちにレアディールも悟るだろう。
――想うだけ、無駄なこと……。
彼は泣くだろうか。手紙など出さなければよかったと後悔するだろうか。
俺には関係ない――と、ゲイブは切り捨てようとした。だが、知ってしまったレアディールの身の上が、胸に重くのしかかっていた。
神父の言う通りだった。レアディールは哀れだ。自分のではない罪を償うために、二十歳という人生の華の時期を、誰にも振り返られることなく過ごしているなんて。
その日家に帰ると、ゲイブは屑入れから手紙を拾った。ぐしゃぐしゃに丸まった封筒を開け、便箋を広げて、拳でこすって平らに伸ばした。
これを書いた時、レアディールはどんな気持ちだったのだろう。青年らしく、淡い恋に胸をときめかせていたのだろうか。あるいは、決して届かぬ想いに悲しみ、憂いを抱えていただろうか。そして、それでも書かねばならぬのだと思い詰めていたのだろうか。
恋文を書いたくせに、相手の視線を受け止める勇気もない――ゲイブは、そうレアディールを評した。だがそれは、たぶん間違っている。
この恋文こそが、レアディールの勇気の結晶なのだ。
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