第一話

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第一話

「だぁかぁらぁー!とりあえず今持ってる金、全部出せって!したら今夜は帰してやっから、な?」 腫れ上がった片方の瞼の隙間で、怯えたように黒目がちらちらと覗く。俺に向けられる懇願のこもった眼差し。よれたスーツのまま両ひざをつき、だらりと両肩をさげている男から目を逸らして、薄汚れた看板の下に転がるペットボトルを眺めた。 「聞いてんのアンタ?助けてオニーサンとかいう目でコイツのこと見たってダメ。借りたのはそっちなんだからね?わかる?」 ぴたぴたと手の甲で頬をはたかれ、すみません、と弱々しく呻く男の肩口に、言われるがまま、数発蹴りを入れる。男はがくりと身体を揺らしてずるずるとアスファルトへ倒れこんだ。 「オイ浅緋(あさひ)、こいつから有り金全部取っとけ。俺は事務所に戻っとく」 「…っス」 煙草をくわえ、首をぐりぐりと回しながら気怠そうに去っていく派手なスーツ姿を見送ってから、地面に倒れている男に声をかけた。 「大丈夫か?」 「…は、はい。すみませんすみません…」 平板な声に驚いたのか安心したか、男はふにゃふにゃとした笑いを漏らしながら、よろよろと立ち上がった。 片手でカバンをがっちり抱え直し、まぶたに指を沿わせ腫れ具合を確かめている。 「相当腫れてんぜ。とっとと冷やすかなんかしとけよ」 「はい、ありがとうこざいます!」 俺に痛めつけられたくせに、ぼろぼろな顔に薄笑いを貼り付けて後ずさりしながら表通りの方へ顔を向けた男に、 「オイ、持ち金ちゃんと置いてけよ」 と凄む。頬をさする手のひらの動きをぴたりと止めて、彼はこっちを見た。 「え、あの…見逃してくれるんじゃ、ない、んですか…」 「そんなわけねーだろ。コッチも仕事なんだよ」 男の目を見ないようにして、大事そうに掴んでいたカバンを取り上げる。上着をまさぐり、内ポケットから財布を取り出した。 「んじゃ、コレどっちも貰っとくから」 「や、やめてくだ、それは、えっと、む、息子!そう!ムスコの誕生日の…っ」 俺のTシャツの裾を掴んでひっぱりながら、焦った声を出す。角がめくれ、擦り傷だらけの財布から、写真がのぞいていた。古ぼけた背景に小さな男の子が写っている。 くそ、こんなもん見せんじゃねぇっての。 「あんた、こんなもん持ち歩く資格ねーよ。ギャンブルばっかしてるくせに、こんな時だけ調子のいいこと言って見逃してもらおうとしてんじゃねえ!」 苛立ち紛れに腹に蹴りを2、3発入れ、うずくまる背中に財布を投げつけて、俺はそのまま歩きだした。 表通りを照らすぺらぺらしたネオンよりも、裏路地の安っぽい鈍い光の方がまだ落ち着く。前を見てあるいているつもりが、いつのまにかスニーカーのつま先ばかり目に入ってきた。 あー、また、兄貴にシメられる… あんなズタボロなヤツからの回収もできないんか、と嫌味を言われるのが今から見えるみたいだ。もしかしたら殴られるかも知んねえ。あの借金野郎も本気で子どもにプレゼントを買うとは思えなかった。 なん年前の写真だよあれ。なに絆されてんだ俺は。 のろのろとした足取りはやがて、赤い自販機の前から進まなくなる。そのまま事務所へ向かうにはすこし、何かに後押ししてもらう必要があった。 煙草の箱からスマートにすっと一本を取り出す、というのは結構難しい。ライターの火も一度でかっこよくついた試しがない。じじ、と先端が鈍い火の色に染まる。事務所の人たちのように思い切り深くニコチンを吸い込んで、肺に煙を送り込もうとして盛大にむせた。じわり、目尻に涙がたまる。やっぱタバコなんてうまくもなんともねー。 「お前はほんと、顔がキレーなのと、腕っぷしが多少使えるってだけだな」 呆れたように言われる言葉。 そんなんでこの世界でやってけんのか? 「そんなこと知らねーよ…こっちが聞きたいくらいだっつの」 思わず声に出して、我ながら情けなくなる。長いままの煙草を足元に放り投げ、ずりずりと靴の裏で火を潰してその足で路地の先にある少し小洒落た扉へと向かった。 小さな木の看板には『cafe &BAR 雪』とだけ。 重いドアはまるで客を拒否しているかのようだ。 「いらっしゃ…なんだ、おまえか。飲めもしねえのに来んなって言ってんだろ」 カウンターの向こうから長髪のバーテンがむっつりと迎える。やたらとさらさらした黒髪にとおった鼻筋。眼鏡が知性をプラスしてるらしく、オンナにものすごく人気がある。口が悪いのを隠しているからだろう、多分。 「いいだろーが。カフェなんだろここは」 「それは昼間だよひるま、浅緋くん」 バーカウンターの一番端のスツールに腰をどさりと落とし、店内を見渡す。目新しい客はほとんどいなくて、陰気臭い背中をこちらに向けちびちび飲むような奴ばっかりだ。昼間の、女子高かと間違うくらいのきゃいきゃいとした盛況ぶりとは正反対の、寂れた雰囲気が肌に合って、いつしか夜はこの店に通うようになった。 ここでは誰も俺に見向きもしない。呆れたようにこのまんまじゃダメだろ、なんて諭したりしない。心地よい孤独感に浸っていられるから好きだ。 酒は飲めないし、飲める年齢でもない俺に、黒いさらさらヘアを一括りにしたバーテンはティーソーダを出す。お子様はこれでも飲んどけ、と初めてこの店にきた時に出されたカフェの人気ドリンクが、俺の定番となって一年くらい経つ。 「で、今日はなんの失敗したの、あさひくん」 「うるせー」 形のいい眉をあげ、面白くもなさそうに聞いてくるバーテンを適当にあしらって一気に飲み干す。 ふん、早く帰れ、と言われるのもいつもと同じだ。そのあとは俺のことを放っておいてくれる。 頬杖をついてしばらく、ここではない場所と、恥ずかしそうに笑う顔を思い出していた。 多少は怒られるけど、それも仕方ねー、と覚悟を決めて店を出る。 仰ぎ見た夜の空。せこせこと雑居ビルが建ち並ぶそのまだ上には、いびつな縦長の形に切り取られた紫紺のキャンバス。まんなかにぽかりと月が浮いている。オレンジみたいなその月のとなり、ぼやけた小さな金色の月が寄り添っていた。 あ、あの月。さっきまでなかったあのふたつめの月。 今日は、アイツに会える。 あたたかい疼きが腹のなかでくるくる回りだす。 やがて来る、魂を引っ張られるような衝撃に備えて、目を閉じた。
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