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待っていた時間
正男はそわそわしていた。
時計は14時半。
そーっと襖を開き部屋を覗いた。
まだ寝てる…
こんな時間にママが布団に入っているなんて
今までほとんどなかった。
正男はそっと襖を閉め、階段をゆっくり降りた。
キッチンのテーブルにヨイショと腰を掛けた正男は落ち着かなかった。
お腹が空いたのだ。
いつもママは15時になると
「正男、3時のおやつよ」と美味しい手作りのおやつを出してくれる。
正男は毎日「3時」が待ち遠しい。
「ママ…風邪でも引いちゃったのかな…」
ママが心配になった正男だったがいつもと様子が違うママに何をしてあげればいいのかわからなかった。
そして何より今は、果たして3時におやつを食べることができるのか…それが心配だった。
そうだ!自分で作ろう!
…どうやって作ればいいのかわからない。
そうだ!近くのお店で買ってこよう!
…迷子になって帰って来られなかったらどうしよう。
正男は冷蔵庫を開けてみた。
ママが料理に使うであろう食材が並ぶだけで、今食べられるおやつらしきものは見当たらなかった。
次に正男はキッチンの引き出しを順番に開けてみた。
3番目の引き出しの奥にひとつ、煎餅を見つけた。
「勝手に食べたらママ、怒るかな・・・。」
正男は悩んだが、おやつが食べられないかもしれないこの事態は彼にとっては死活問題だった。
ガサガサ・・
袋は正男が思った以上に大きな音がして、ドキドキしてしまった。そして一口。そのドキドキを隠し味に
「おいしい・・・!」と
正男はぺろりと煎餅を食べきった。
カラカラ・・・・
「正男?」
二階からママの声が聞こえて慌てた正男は急いで煎餅の袋をゴミ箱に捨てた。
パタパタと少し足早に階段を降りてくるママに今自分が行ったこの悪事がばれてはいないか怖かった。
「正男、ごめんね、おなかすいたわよね?ちょっと体調が良くなくて、こんな時間まで横になっちゃってたわ。もうすぐ3時。すぐおやつ作るからね。」
ママはついさっきまでの正男の緊張を一瞬で吹き飛ばすほどの優しい声で語りかけ、しゃがみこんでいた正男に目線を合わせ、髪を撫でた。
そのとき、ほっとしたのと同時にママに黙って食べた煎餅のこと。
体調が悪く寝ているママに何もせず、おやつの心配ばかり。
そんな自分のために今日もおやつを作ってくれるというママ。
正男の心は罪悪感で押しつぶされた。
「ママ・・僕ね、僕ね、」
目に涙を溢れんばかりに溜めた正男は胸が痛くて苦しくて堪らなかった。
「どうしたの?ごめんね、ママが起きてこなかったから不安になっちゃたのね。正男、ママもう大丈夫だからね。」
ママはもう一度正男の髪を撫で、キッチンに向かって立ち上がった。
「すぐ作っちゃうから、座って待っててね。今日はパンケーキよ。」
パンケーキのフレーズに目がぱっと明るくなった正男は溜まった大粒の涙を一つ頬に落とし、小走りで椅子に座り、ママの背中を見つめた。
・・・ママ、大好きだ。
正男は心がとてもポカポカした。
ぼーん・・ぼーん・・時計が3時を知らせた。
「おまたせ、正男。召し上がれ。」
見るからにふわっふわのパンケーキを前に正男はわーい!と万歳をし、
いっただっきまーすと齧り付いた。
二口、三口と口に運んでいったところで正男は異変に気付いた。
お腹が熱い・・・!
苦しい!ゲホッゲホッと餌付くもそれすらできないほど息が吸えなくなった。
バタバタさせた手が、パンケーキを乗せた皿にあたり、ガシャンという音と共に正男もテーブルの下に倒れた。
「マ、マ・・ママ・・マ・・・・」
助けを求め見上げたママの顔はとても穏やかで、いつものママと変わらなかった。
14時半───────
母親は襖から覗く正男に気づき、重い体を持ち上げた。
「もうすぐ3時ね・・・おやつ、用意しないと・・」
母親はここ1年ほどあまり体調が思わしくなく、最近では何をするにでも辛くて仕方なかった。
階段を降りると、強張った顔の正男がこちらを見ていた。
声をかけると涙ぐんだ正男を見て、母親は申し訳ない気持ちになった。
・・・早くおやつの用意をしてあげないと。
今日が最後のおやつ作り。少しさみしい気持ちもあるけど。
明日は正男の誕生日。だから今日にしたの。
──母親は前日から準備していたパンケーキの生地を温めたフライパンに流し込んだ。
ぼーん・・ぼーん・・時計が3時を知らせた。
泡を吹き、痙攣しながら自分を呼ぶ正男から、母親は最後まで目を離さなかった。
「まだ40代のうちが良いわよ、絶対。ニュースになったときの印象とか。明日は誕生日でしょう?ママ、あなたに50回目のおめでとう、言いたかったけどね・・・。」
母親はすでに傘寿を迎え、正男の世話をするのは体力的に限界がきていた。
ずっと、ずっと苦しんでいた。
いつ息子は他の家庭の子供のように外に出て、働き、自分の人生を歩んでいくのか。
よく夫と、とうとう学校に行かず、そのまま成人した正男について話し合ったものだった。
どこから間違っていたのか、お互いが自分を責めた。
親として出来ることは何か、親としての責任とは何か、答えが出せないまま月日はどんどん過ぎて行った。
夫が逝ったあとも、泣きじゃくり、ただただ母親にしがみつくだけだった正男は、おやつの時間だけは部屋から出て来て笑顔になった。そんな正男の笑顔を見ると不思議と母親も心が満たされるように感じた。だからおやつの時間だけは毎日大切にしてきた。
動かなくなった正男の横に寄り添った母親は、正男が残したパンケーキを掴み、口に運んだ。
先ほどゴミ箱で見つけた煎餅の袋、正男は自分で探し、それを口にし、母親に隠した。
寝ている母親を起こすまいと静かに襖を開き、閉め、静かに階段を降りた。
今日だけでもたくさん成長したのね、と母親は正男への想いで心をいっぱいにした。
・・正男、大好きだよ。ごめんね。
瞼に滲む涙は、そのまま流れることはなかった。
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