【相談内容】彼女を殺そうとした理由

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【相談内容】彼女を殺そうとした理由

 私、河合めぐみが夫である河合尚志と出会ったのは8年前のこと。私が23歳、夫が28歳の頃だ。  行きつけの喫茶店で、たまたま相席になったことがきっかけで、私たちは仲良くなった。  初対面にもかかわらず懐に飛び込んでくるのがとてもうまかった。一流商社のトップ営業マンと後から聞いて、なるほどと思ったものだ。  なんでも気軽に相談できる友人としての関係が続いた。結婚を前提とした正式な付き合いを申し込まれたのは、知り合ってちょうど二年目のことだ。  彼は完璧な彼氏だった。記念日を忘れない。常日頃の連絡を絶やさない。サプライズなどの演出をする。疲れている私を優しい言葉で癒し、温かく抱きしめてくれた。  付き合い始めて一年後、真奈を身ごもった。彼はとても喜んでくれた。真奈をきっかけに私たちは結婚した。  ここまでは順調そのものだった。当時の私はこの先も順調にいくものだと信じてやまなかった。だけど、それは幻想だった。  結婚後、夫の態度が一変した。優しい言葉はなくなった。些細なことで怒るようになった。彼より先に風呂に入ることも、寝ることも許されなかった。  朝は必ず彼より先に起きて、朝食や洗濯、すべてきちんと終わっていなければならなかった。つわりがひどかろうが、体調が悪かろうが関係なかった。  彼の生活スタイルを乱すことは許されないことだったのだ。  一生懸命努力した。  だけど、できないときもあった。ごめんなさいと謝っても、いいよなんて言葉はかけてもらえなかった。  彼の思い描いたようにできなければ責められた。  なぜできない?  なぜ間違えた?  考えればわかることでしょ?  君はどうしてそんなに無能なんだ。  言われた言葉が多すぎて、正直全部は覚えていない。ただつらかったのだけは鮮明に心に残っている。  そんな私を支えてくれたのが真奈だった。真奈がお腹の中で元気に育ってくれていることだけが私をこの世界に留めてくれた。  この子のためにも父親は必要。だからどんなひどいことを言われても、自分さえがまんすれば、がんばればいいと。  真奈が生まれたときのことを私は忘れない。  24時間以上もの陣痛に耐えて、彼女の産声を聞いたときは涙がとまらなかった。この子を絶対にしあわせにするんだと、私は彼女の顔を見た瞬間に決意した。  夫は生まれたばかりの真奈に最初こそとまどってはいたけれど、無垢な彼女の寝顔に癒されたようだった。 「今までつらくあたってごめん。これからはいい夫に、いい父親になるよ」  彼は病室で泣いて私にそう謝ってくれた。  真奈が生まれてきてくれたことで、私たち夫婦の関係は結婚する前の状態に戻った。彼は宣言通り、完璧な夫、完璧な父親でいてくれた。  真奈はそんな彼が大好きになった。  ああ、これで大丈夫。真奈がいればきっと――  だけど、しあわせな時間は真奈のいやいや時期を迎えた途端に終止符が打たれた。二歳児特有のいやいや病。これに夫が対応できなくなったのだ。  どんなに優しい言葉をかけても彼女は横を向いた。抱っこしようとすれば全力で拒否して私の背に隠れた。  違う。これは時期的なものだから。あなたを嫌いになったからすることじゃないから。  そう伝えても、彼は心を閉ざしてしまった。拒絶されたことに傷ついた彼は、真奈に対する怒りを募らせていった。  いやいや時期を乗り越えて、彼女が再び彼を求めようとしても、今度は二度と手を差し伸べなかった。それどころか、怒りを彼女にぶつけるようになる。  箸を落とせば怒鳴る。大きな物音を立てれば物を投げる。  私は必死に彼女をかばった。それもいけなかった。彼はますます怒りを溜め込んでいった。そしてついに手を上げた。  彼女が彼の大事にしているプラモデルを壊してしまったからだ。  一緒に謝ろうと彼に正直に話そうと言った私は後悔した。 「ごめんなさい」と言い終わる前に彼は彼女の頬を思いっきりはたいていた。   小さな体が仰向けに床に倒れた。頬は真っ赤に膨れ上がり、口の端が切れていた。  火がついたように小さな彼女は泣きじゃくった。それを聞いてますます夫は逆上し、倒れる彼女の髪の毛をひっつかんだ。 「やめて! 真奈を殺さないで!」  叫んだ私を見下す彼の目が大きく見開いた。 「ふっざけるな!」  夫は容赦なく私の腹を蹴った。顔を殴った。どれほどの時間、暴行を受けたのか。気づいたとき、私は床に倒れていた。  目を開けたとき、夫は憔悴しきった姿でそこに座っていた。  私と真奈に何度も、何度も「ごめん」と頭を下げた。昔からカッとなると自制できないんだと。だからいつも完璧な自分であろうとしていたんだと、彼は告白した。 「今まで以上に大事にする。だから許してくれ」  こんなひどい仕打ちをされたのに、それでも私は彼といることを選択した。怒らせてしまった自分にも非はあるのだと。そして死ぬほど後悔しているのならば、きっと繰り返すことはないだろうとそう思って。  私は甘かった。  一度暴力を振るえば、枷が外れやすくなってしまうということに気づいていなかった。  さらに不運は続いた。彼の業績が落ちたことだ。一時期は会社のトップセールスを築いた彼は売り上げを伸ばすことができなくなっていた。  そのストレスが私や真奈に向かう。  そのうち、彼は会社にも行けなくなった。酒を浴びるほど飲む。ギャンブルに手を出す。酒を切らせば暴力に走る。怒声は毎日やむことがなかった。  生活はギリギリ。貯金も底をついた。  もうどうしていいかわからない。  誰に相談していいのか。    相談したことが彼の耳に入って、余計に暴力を振るわれたら?    怖くて、怖くて誰にも言えなかった。  もう八方ふさがりだ。孤立無援状態の私にはまともに考える力は残されていなかった。  いっそ真奈を殺して私も死んでしまえば楽になるんじゃなかろうか。  逃げても彼は追ってくる。どこまでも執拗に。完全に彼との縁を切るには死ぬしかない。  そう思って私は、すこやかな寝息を立てている娘の細い首に両手をかけたのだ。
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