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【アセスメント】ねこさまはすべての女子の味方なので
「白夜さんがここに来た理由がようやくわかりました。命の危機を察知したんですねえ」
そううなずきながら、久能さんは隣の部屋に視線を向けた。隣の部屋では真奈が白夜さんと呼ばれたしろねこさんと猫じゃらしで遊んでいる。
パタパタパタと彼の目の前で猫じゃらしを揺らすと、しろねこさんはムッとした顔でパチンッ、パチンッと驚くほど素早い猫パンチで弾いていた。
百発百中。
空振りなし。
そんな姿からしてみても、彼は他の猫とは毛色が違っていた。
「それにしても……」
ふうっとひとつ大きく久能さんは息を吐いた。額には深いしわが刻まれている。
私の話を聞いている間、彼はメモを取るでもなく、ただ私の顔をじっと見ていた。時折大きくうなずいたり、話をうながしたりはするものの、余計なことは一切言わなかったのだ。
そんな彼が「心がつぶれてしまうようなお話ですね」と初めて自分の気持ちを口にしたのだ。
「夫婦ならば衝突するのは当たり前だと思います。だからと言って暴力を振るっていいわけではありません。それに、旦那さんはあなたや真奈ちゃんに暴力を振るったことで一旦落ち着くんです。その後、とても優しくなることも多いでしょう。しかし、これはドメスティックバイオレンスをする人の典型的な行為です」
「でも夫も苦しんでいると思うんです。本当はいい人なんです。いい夫だし、いい父親になってくれるんです。ただ今は環境や状況が悪いだけで……」
そう言うと、久能さんは小さく首を横に振った。
「河合さんが旦那さんを庇う理由はわからなくもありません。家族ですし、真奈ちゃんの大切なお父さんです。しかし話し合ったところで治りません。繰り返します。彼を治そうなどと思わないでください。簡単に治らものではありませんから。これは断言します。だから、すべてを受けとめる必要はないんです。夫婦だから許してあげないといけないわけでもありません。お二人に悪いところはないんです」
「そうでしょうか? 本当に私たちに非はないのでしょうか?」
私がもっと賢かったら。もっとできる妻だったら。真奈が大人しくしていたら。夫を気遣えていたら。彼は暴力という手段に走らなくても済むのではないのか。
「DVの怖いところは被害者側がマインドコントロールされてしまうところなんです。河合さんや真奈ちゃんがどんなに献身的に尽くしたとしても、彼には届かないんです」
ハッキリと告げられた途端、目頭が急に熱くなった。
薄々は気づいていた。真奈が「優しいパパに戻るよ」と言ったときだって、戻らないんだよと言いたかった。
だけど真奈を失望させたくなくて。悲しませたくなくて。
泣いてつらがる彼女を抱いて、「いつかきっとわかってくれる」と言い聞かせてきたのだ。今さら彼女に「戻らない」なんてどうしたって言えない。
「私……私……真奈を……これ以上悲しませたくないんです」
「ええ、本当に。あなたも真奈ちゃんもよくがんばりました。ここまでよくぞふたりとも耐えてくれました。ですが、それももう終わりにしましょう。今度はあなたと真奈ちゃんがしあわせになる番が来たんですよ」
「この地獄から……抜け出すことができるのですか?」
「もちろんです」
久能さんはハッキリと答えた。やわらかな笑みを湛え「お任せいただければ」とつけ加えた。
「お任せ? あなたに?」
「正確にお答えするならば、私でなく白夜さんです」
「白夜さん? あのねこさんですか?」
目をぱちぱちとしばたかせて久能さんを見た。しっかりとこちらを見つめる彼の目には強い光が宿っている。彼が冗談を言っている様子は見受けられない。
「あの……久能さん。お話しした通り、夫はカッとなったら、なにをしでかすかわからない人です。あなたの大事なねこさんに怪我を負わせることになったら、私、どうしたらいいか……」
丁寧に断りの言葉を口にする私に、久能さんは唇の両端を美しく押し上げて「それは間違いなくありませんから」と答えた。
「白夜さんが怪我を負うことはありません。むしろ、旦那さんのほうが怪我をすることになるでしょう」
「え?」
目を見張る私に、久能さんは笑顔のまま小さくため息を吐いた。
「話を聞いて白夜さんの心はかなり荒ぶっています。おそらく容赦はしないでしょう」
「たしかにねこさんは身体能力も高そうですし、他のねこさんとかなり違うとは思います。だけど、夫は人間です。小さなねこさんが対抗できるとは思いません」
真奈に抱っこされ、グリグリと顔を押しつけられているねこさんはものすごい不機嫌な顔をしていた。
それでも真奈のためになのか、彼はじっとグリグリされ続けている。
「めぐみさん。あなたは死ぬ覚悟までした人です。今回の申し出はたまたま偶然やってきた猫に拾われた命の延長上にあるものだと思って、もしかしたらという可能性に賭けてみませんか?」
久能さんの言うことは納得できるものだった。
私は死ぬ覚悟をした。
愛する娘を手にかけようともした。
私が彼女の首に力を入れようとしたとき、ねこさんが鳴かなかったら今こうして、こんなふうに話をすることはなかった。
誰にも打ち明けられずに泣き暮らして、次は確実にこの世を去ることになるだろう。
ならば一度くらい、夢を見てもいいかもしれない。真奈と二人、しあわせになれる未来を夢見たって罰は当たらないかもしれない。
彼の話を100%丸呑みはできないけれど、夫の暴力の恐怖から本当に逃れることができるのなら――
「わかりました。あなた方に賭けてみます」
そう答えると、久能さんは「それでは白夜さんを見てもらってもいいですか?」と告げた。
「今から主人の言葉を伝えます」
「はい」
久能さんが「真奈ちゃん、こっちに白夜さん連れて来て」と真奈を呼んだ。彼女はうれしそうにねこさんをこちらに連れてきた。小さな真奈に抱かれたねこさんは引きずられるようにやってくると、私の顔をじっと見上げた。
「河合めぐみ。おまえたちのしあわせな未来を俺様が約束してやる」
「はい」
「だから二度とバカなことは考えるな。約束しろ」
「はい」
笑顔で答える私の目の端から、自然に涙がこぼれ落ちた。ウソでも冗談でも構わない。今、私はとてもしあわせな気分になっていた。
「ええっと、めぐみさん。白夜さんは女性の涙に弱いんです」
横に並んで座った久能さんが困ったように眉を寄せた。
「うちのねこさまはすべての女子の味方なので」
そう、彼は遠慮がちにつけ加えた。
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