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【計画実施】このたわけ者め!
時計の秒針の音がやけに大きく聞こえた。一秒、また一秒と刻む針を見ると、そわそわとして落ち着かなかった。
もうすぐ夜の10時半を回る。パチンコの閉店時間だ。ぼちぼち夫が帰宅するだろう。
真奈は隣の部屋ですでに眠っている。いつもは寝ることを怖がる彼女だが、今日はしろねこさんが傍にいてくれたことで安心して眠ることができた。
彼女が寝ることを恐れるのは夫のせいだ。夫は寝ている幼子の胸ぐらを掴んでたたき起こす。「俺より先に寝ているんじゃねえ」と怒鳴り散らして彼女の頬を思いっきりはたくのだ。
それでも彼女は絶対に泣かない。小さな唇を力いっぱい噛んで泣き声を出すまいと必死に我慢するのだ。
泣けば夫はもっと逆上する。もっと、もっと手を上げられる。
夫をとめようとして彼女を庇う私への暴力を少しでも減らすために、彼女は小さな体で精一杯抵抗するのだ。
大きなため息を吐く。心臓が痛い。万力でねじりつぶされるみたいな痛みに、思わず胸元のシャツを掴んだ。
そのときだ。ふっと隣に気配を感じた。
気配のほうへ視線を向けると、しろねこさんが私の隣で姿勢を正して座っている。
久能さんが言っていたが、この座り方はエジプト座りと呼ばれているらしい。スタンダードな座り方だけれど、いつでも動きだせるように警戒している姿でもあるのだと――
「心配してくれているのね。ありがとう」
ほっそりとしているのにたくましい彼の背中に手を置く。触れられるのは好きではないのだと久能さんが言っていた。
だけど許してくれるらしい。
彼は一切こちらを見ない。ただ玄関のほうを見つめたまま、長いしっぽをゆったりと動かしている。
やわらかな毛で覆われた彼の体から温かな熱が伝わってくる。胸の動悸が少し落ち着いた気がした。
しかし、ホッとしたのも束の間のことだった。ガチャンッと乱暴に扉が開く音がして、すぐさま玄関へと目を走らせた。ドンドンッと床を激しく叩く音が聞こえた。
夫の足音だ。どうやら今夜も機嫌は最悪のようだ。
しぶしぶ立ちあがろうとする私は、しかし立ちあがることができなかった。しろねこさんが小さな前足を私の太腿に乗せて制したからだ。
やわらかい肉球の感触がするのに、足を太い杭で固定されるみたいな重さを感じた。ビクとも動かない。
夫が部屋に入ってくる。面白くなさそうな険しい顔をしている。思ったような結果にならなかったのだろう。
座ったまま、じっと見上げる私を彼は鼻先にしわを作って睨みつけた。
「飯の支度はどうした?」
ダイニングテーブルにはおかずの乗った皿どころか、お茶碗も箸も用意されていない。食事の支度はしていないのだ。彼の分を用意しないでほしいというのが久能さんの指示だった。
「飯はどうしたって言ってんだろうがっ!」
夫が激しい剣幕で私に向かってくる。目を逸らせない。しろねこさんの足はまだ私の股の上にある。逃げることもできない。
息が上がる。体に震えが走る。夫の怒りに震える手が眼前まで迫ってきている。
夫の手が私の髪を掴もうとした瞬間、巨大な風船が割れるような、パアンッという派手な破裂音が響いた。鼓膜を破る勢いの音に思わず身をのけ反らせて耳を塞いだ。
音の出処を探す。音を出していたのはしろねこさんだった。彼の長い尾が床を思いきり打ったらしく、しっぽの先の床がべコリと沈んでいる。
急いで夫を見る。予想もしていなかった音に不意を突かれた夫は腰が抜けたのか、床に座りこんでしまっている。
しかしすぐに我に返って立ちあがると「驚かせやがって!」としろねこさんへ怒りを露わにした。
「たかだか猫の分際で!」
夫が顔を真っ赤にさせてしろねこさんのお腹目掛けて足を大きく振りかぶった。
「やめてえっ!」
声の限りに叫んで私はしろねこさんの上に覆いかぶさろうとした。
けれど、しろねこさんはするっと私の体からすり抜けた。そのまま夫の足目掛けて高くジャンプする。
長いしっぽをつるのように彼の足首に巻きつけ、ふわっと軽やかに着地する。夫のつま先が私の鼻先を掠める。
次の瞬間、ダーンッとものすごい音とともに彼は仰向けに倒れた。いや、ちがう。しろねこさんによって倒されたのだ。
強く腰を床に打ちつけた夫の口から苦い呻き声がもれていた。
するとしろねこさんは巻きつけていたしっぽをしゅるっとほどくと、うろうろと歩き始めた。彼の長いしっぽは書道家の筆のように先っぽだけが曲がった状態で、滑らかに床を撫でる。
「オン アビラウンケン ソワカ」
唐突に頭上から久能さんの声が響いてきた。顔を上げる。
だけど、黒髪の青年の姿はどこにもない。耳を澄ます。
声の出処は部屋の中ではない。もっと、もっと高いところだ。それこそ空から降ってくるように、何度も何度もお経のような言葉が聞こえてきている。
低い声が響く中、夫が腰を抑えながら、ようやくといった様子で上半身を起こした。倒れたときに一緒に頭も打ちつけたのか、ぶるぶると勢いよく頭を振った。
「なんだよ、この気持ちの悪い声は……」
どうやら幻聴ではないらしい。夫が天井を恐々と見上げてつぶやいた。
「ウナーオ」
お経を読み上げるような低い声に呼応したしろねこさんが一際高い声を上げた。
その直後、彼の座っている場所が金色に光った。2㎝ほどの幅の光りの帯が彼をぐるっと囲う。円の模様ができた。続けてその円内にまっすぐな五本の線が現れて星をかたどる。
いったいなにが起きているのか。円と星の組み合わせの柄が完成したとき、光が円全体から天井に向かって一気にほとばしった。
あまりにもまぶしくて、私は目を細めた。視界が金色に染まる。
光の洪水が細めた目の中まで入りこんでチカチカと光って痛い。なにも見えない。しろねこさんも、夫も、周りの風景も、なにもかもすべてが光に飲みこまれてしまう。
どれほどの時間だったろう。おそらく数秒のできごとだったに違いない。
「オン アビラウンケン ソワカ!」
光が落ち着いて、ぼんやりとした視界に風景の輪郭が戻ってくると、私はあっと息を飲みこんだ。
先ほどまではいなかったはずの青年がいる。身長は180cmくらいはあるだろうか。白い着物に浅葱色の袴をはいた和装姿の青年がたしかに私の目の前に背中をむけて立っていたのだ。
だけど、私の仰天させたのはそんなことではなかった。
青年の頭から人間では決してありえない、大きな三角形の獣の耳が突き出ていた。
それどころか、彼のお尻の真ん中からは真っ白くて、とても長いしっぽがにょっきりと生えていたのだ。肩甲骨にかかろうかという髪だって真っ白だ。
まるで先ほどまで私の前にいたしろねこさんが人間になったかのような――そんな姿をした青年が、ゆっくりと振り返る。
水色に光る目が二つ、私を見た。顔は昼間、私の話を聞いてくれた黒髪の美青年、久能孝明その人のものだった。
でも雰囲気は久能さんではない。人間の男性というにはあまりにも彼は神々しすぎた。
「ば、化け物!」
夫が引きつった叫び声をあげた。それを聞くと白い髪の久能さんはやれやれと肩を落とした。
「このたわけ者め! 化け物はおまえのほうだ!」
空気がビリビリと震えたのではないかと思うほどの強い恫喝が飛んだ。夫の喉から声にならない「ひぃっ」という空気がもれた。呼吸は浅く、両目がおろおろと左右に揺れている。びくびくとつま先も震えている。
恐怖に引きつった顔で突如現れた獣耳を生やした青年を見上げている。
そんな夫の胸ぐらをむんずと久能さんは掴んだ。片手で楽々と夫を持ち上げる。夫の足が床から離れてブラブラと宙に浮いた。
「おまえ、こうやって真奈のことを掴んだだろう?」
夫の顔を伺うように右へ左へ首を揺らして久能さんは尋ねた。夫は答えない。ただ血走った眼で彼を見つめ返している。
「なあ? この後おまえはあの子になにをしたか、覚えてるよな?」
質問をする久能さんの口から鋭く尖った歯が見えた。夫が大きく目を見開く。無防備に開いたお腹に向かって、彼は勢いよく拳を突いた。
潰れた悲鳴が上がる。喉元を握られているせいで声が出せなかったのだ。夫はじたばたと苦しそうにもがく。そんな夫のお腹にもう一度拳が入った。
「なあ? 思っていたよりもずっと痛えだろう? だけどな、真奈やめぐみはもっと痛かったんだぜ?」
久能さんが胸ぐらを掴んでいた手をパッと離す。夫は尻から床に落ちた。再び鈍い叫び声が上がる。
しかしその口はすぐさま久能さんの大きな手で塞がれた。長い爪が彼の頬の肉に食い込んで、ぷつりっと皮膚が裂けた。赤い血が爪先を濡らす。
「怖いか? 怖いよなあ? 怖くてたまらないだろう? おまえはこういうことをずっとあいつらに強いてたんだぜ?」
心が寒くなるくらいの冷たい声だった。ブルッと私は体を震わせた。空気が冷たい。真冬の空の下に薄着で立っているみたいだ。
「なあに安心しろ。俺様はとてもやさしいんだよ。殺しゃしないさ」
ふふっと久能さんは形のいい唇を引きのばして笑みを作った。夫は必死に首を振る。両足を必死に動かして、身をよじろうとした。
しかし顔を掴まれたままの彼の体はどうやっても逃れることはできないようだった。
「今回の俺様はとても慈悲深い。真奈がおまえをまだ信じているからな。あの子のためにおまえの額に楔を打ちこませてもらう」
そう言うと、久能さんは左手の人差し指の爪で、夫の額にマークを描く。爪先が皮膚を剥いでいく。
赤い血が描いたものを浮き上がらせた。それは先ほど、しろねこさんが床に描いたものと同じ、円の中に星の形だった。
「これは五芒星。魔よけの呪符によく使われるものだ。おまえの魂にこれを刻んだ。おまえが真奈やめぐみ。いや、己以外の人間に危害を加えようとすると、呪符の力が発動する。体の内側が壊される痛みを体感したければやってみろ」
「う……ううっ」
夫の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。恐怖で引きつった顔からは血の気が失せ、必死に抵抗していた身体からは完全に力が抜けきっていた。だらんとぶら下がった手が床に落ちている。
「真奈とめぐみを二度と泣かせるなよ? できるよな?」
念を押すように尋ねた久能さんに夫はコクコクと素早く首を縦に振った。
「約束を破ったら、そのときは殺すよ? いいな?」
夫があうあうと苦しそうに目を泳がせて喘いだ。
久能さんは一旦大きく目を伏せてから、夫を離した。
袴を払って静かに立ちあがる。隣の部屋では何事もなかったかのようにぐっすり眠る真奈の姿がある。寝ているはずの彼女が口元をゆるませた。笑顔ですこやかな寝息を立てる彼女を見た後で「めぐみ」と久能さんが言った。
「は、はい!」
正座の姿勢になる。
「おまえ、もう少し自信を持っていいぞ。まだまだ若いんだ。やり直しはいくらでもできる」
「え?」
「こいつはもう使い物にならん。離婚して月に一度真奈に会わせてやれ。それが一番いいだろう」
「でも、久能さん。私……」
すると久能さんはこれまでで一番大きなため息を吐いた。がっくりと肩を落とす。
「間違えんなよ。俺様は白夜様だ」
「え?」
「とにかく、真奈と一緒ならなんだってできるだろう。死ぬ気で生きろ。それが恩返しだと思ってな」
「は、はいっ! 本当にありがとうございました!」
「いい子だ」と久能さん、もとい白夜様はにっこりとほほ笑んだ。
その笑顔につられるように、私もとびきりの笑顔を返した。
「ねこちゃん、ありがとう」
そんな真奈の寝言が聞こえたような気がした。
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