【インテーク】幼い少女としろねこ様

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【インテーク】幼い少女としろねこ様

「ウナア」  猫の鳴き声が聞こえて、私は振り返った。  ベランダに猫が座っていた。白い毛の猫だ。太陽光を浴びた猫の毛は神々しい白さを放っている。  ――なんで?  同じアパートで猫を飼っている人はいない。動物飼育は禁止されている。これまでだって猫の姿も、鳴き声も見たことや聞いたことはない。迷い猫だろうかと一瞬考えたけれど、その考えは捨てた。たまたま迷い込んでベランダにいるという顔つきではない。  じっと私を見る猫の視線がとがった矢のように鋭い。睨みつけられている――と感じるほどの視線が責めるみたいに私に向けられていた。  前足をきちんと揃えて座った猫の長いしっぽがパタン、パタンッと忙しくベランダの床を打ちつけた。さっさとここを開けやがれと、さも言わんばかりの猫の憤然とした態度に、私は「ああ」と心の中で大きく息を吐いた。  神様は見ているんだと感じた。 「ママ?」  昼寝をしていた五歳の娘が、とろんとした目で私を見た。   「どうしたの? 大丈夫?」 「うん、真奈。なんでもない」  震える唇の端を必死に押しあげた。言えるわけがない。あなたの首をたった今、絞めようとしていたなんて―― 「ウナア」  背後でまた猫の鳴き声が聞こえた。その声に、幼い娘が驚いたように飛び起きた。 「ああっ! ねこちゃんだ!」 「あっ、真奈!」  真奈は体にかけていた毛布を勢いよくめくって、ベランダへ一目散に駆けていく。  鍵をあけて窓を開ける。 「うわあ、ねこちゃん。どこから来たの?」  猫は開いた窓から躊躇もせずに部屋の中に入ってきた。毛布の上で座ったままの私のところまで足音も立てずに歩いてきた。  私の横にやってきた猫が毛布をふみふみと揉み始めた。喉をゴロゴロと鳴らして、そのまま毛布の上にごろんと横になったのだった。 「ねこちゃん、毛布気に入ったみたいだね」  真奈が私の隣にちょこんと腰を下ろした。ゴロゴロ鳴きながら、一定のリズムで毛布を踏む猫を彼女がなでる。猫は嫌な顔をすることなく、彼女に撫でられつづけた。 「ねえ、ママ。このねこちゃん、どこから来たのかなあ?」  うれしそうにほほ笑んで、真奈が私を見上げた。  たしかに彼女の言うとおりだ。一体、どこから来たのだろう? 人に慣れているみたいだから、きっと飼い猫なのだろう。でも首輪はしていない。このままうちに居つくつもりなのだろうか?  「ママ。ねこちゃん、飼っちゃだめ?」 「うちはねこちゃんは飼えないのよ」 「パパが怒るから? でもパパもねこちゃんといっしょなら、怒らなくなるかもしれないよ?」 「それは……」  唇を噛む。真奈の濁りのない純粋な目を見るのがつらくて、私は視線を猫に向けた。小さな手が目に入る。  幼い我が子の腕には赤紫のアザがあった。彼女のアザが腕だけにあるのではないことを、私はよく知っている。  体のあちらこちらにある。私にだって彼女と同じアザがある。どんなに痛いかもわかっている。  それでも彼女はまだ信じている。自分の父親が変わってくれることを―― 「ママ?」  真奈が不安げに私を呼んだ。  彼女の心の支えになるのなら。この猫がここにいつくのなら、飼ってもいいのかもしれない。  でも、見つかれば絶対に保健所に連れて行かれることは間違いない。だってあの人は私たちの笑顔を見るだけでストレスを感じるのだから。 「真奈、やっぱりこの猫さんは……」  飼えないことを伝えようとしたときだった。ピンポーンッと長めの呼び出し音に顔を上げた。 「お客さんみたいだよ?」 「うん。でも、誰かしら?」  訪ねてくるような知人も、友人もいない。当然のことながら、約束なんてしていなかった。  おもむろに立ちあがって玄関に向かう。ドアの覗き穴から外を見る。  芸能人とも見紛うほどの黒髪の美青年が扉の前に立っている。  なにかの間違いだろう。あんな美人がうちに用事とは考えられない。隣と間違えているのだ。お隣の女子大生はかなりの美人だったはずだから。  そう思って玄関を開けずに戻ろうとすると、またしてもピンポーンッと鳴った。今度は二度鳴らされた。 「すいませーん」  外から声が飛んでくる。低く艶のある男の人の声だ。 「はい」  チェーンロックを外さないで、私は扉を開けた。10cmの隙間に青年を見る。 「こちらに猫がお邪魔していませんでしょうか?」 「え? 猫?」 「はい。白い毛の猫なんですけど」 「います……あなた、あの猫さんの飼い主さん?」 「飼い主ではないんです。彼は私の主人でして」  変なことをさらりと青年は言ってのけた。飼い主ではなくて猫が主人?   そのとき、足元で「ウナア」と猫の鳴き声が聞こえた。声のしたほうを見ると、真奈が白猫を抱き抱えていた。 「あっ、白夜さん!」  青年が猫を見つけて叫ぶ。猫が青年の声がした側にある大きな耳をぷるぷるっと震わせた。 「ちょっと。なにやってるんですか、そんなところで!」  青年が猫に語りかける。猫はふああっと欠伸を返す。  それを見た青年が大きく肩を落とした。「すみませんが」と遠慮した小さな声でこちらに伺いを立てる。 「よかったら開けていただいてもよろしいでしょうか? その……たぶん、お二人の力になれると思うので」 「え?」  目を見開いて青年を見つめる。彼は扉の隙間から白いカードを差し出した。 「実はこういう者でして」  青年から受け取ったカード、もとい名刺に目を通す。黒い文字で『しろねこ心療所 久能孝明』と印刷されている。 「市役所の方かなにかですか?」  おそるおそる尋ねるが、青年は「いえいえ」と首を振った。 「相談事業を営んでおります。特に誰にも言えないような心の悩みの相談です」 「あの……悩みはありませんから。猫さんはお返しします」  一度扉を閉めて、チェーンロックを外す。今度はちゃんと扉を開けた。  長い黒髪をひとつにきちんと結った青年は笑顔のまま立っていた。髪の色と同じ、もしくはそれよりもっと深い黒のスーツに身を包んだ彼が、すっと膝を折る。 「このねこちゃんはおにいちゃんちの子なの?」 「うん、そうだよ」 「そうなんだ。それじゃあ、おにいちゃんにかえすね」  真奈が青年に白猫を渡す。彼女の目には涙が浮かんでいた。 「ええっと。お名前聞いてもいいかな?」  青年が真奈に尋ねる。彼女が私を見る。悪い人ではなさそうだ。名乗るくらいは……いいかもしれない。  小さくうなずく。彼女が「河合真奈」と答えた。 「真奈ちゃん。白夜さんを入れてくれてありがとう。お礼にこのしろねこさんが君のお願いを聞いてあげたいって言っているんだけど、なにかある?」 「ほんとう!? マナね! ひとつ、お願いがあるんだよ!」 「真奈!」 「あのね、ママにずっと笑っていてほしいの! できる?」  青年は大きな手を真奈の頭に乗せると「そうか」と言って優しくなでた。 「うん。きっとしろねこさんならやってくれるよ」  そう言った彼が私を見上げると「そういうことです、河合さん」と静かに立ちあがった。 「お話、聞かせていただけませんか?」  青年を後押しするように白猫が「ウナア」と力強く鳴いた。
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