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恋宿
時は遡ること明治時代。街から徒歩で30分もかかる辺鄙な場所に、小さな宿屋が建っている。テッセンに囲まれた宿屋は、どこか幻想的で近づきがたい雰囲気がある。
「八重、さっき二番の部屋が空いたから掃除をしておくれ」
「はーい」
八重と呼ばれた18の生娘は、たすきで着物の袖をたくしあげると、掃除用具を持って指定された部屋に入る。
部屋の中には男女の残り香が微かに残っている。八重は残り香に顔をしかめることなく、換気をしながら掃除を始める。八重は心を込めて丹念に、柱まで磨き上げた。
この宿は場所が場所だからか、身分差のある恋人達が逢瀬によく使う。結ばれない男女達はこの宿で落ち合い、熱烈に愛を確かめ合う。
燃え上がるだけならまだいいが、番になれない未来に絶望し、心中をはかる者達もいる。そのような悲しい亡骸を、死にぞこなった者達を、八重は幼い頃から何度も見てきた。
そんな彼女からすれば、男女の残り香は生の証であり、燻った愛だ。
「あぁ、よかった。生きて帰られて。少しは……ここで幸せを噛み締められたのかしら?」
ぽつりと、八重は誰かに問うわけでもなく呟いた。八重はまだ男を本気で愛したことはないが、好いた者と結ばれない悲しさは、この宿の娘に生まれて痛いほどよく分かっている。心優しい八重は、彼らの幸せを祈り続ける。
宿屋の娘は忙しく、部屋が空き次第掃除をし、食事が出来れば部屋に運ぶ。廊下や玄関の掃除も、八重の仕事だ。遊ぶ暇こそないが、八重が不満に思うことは無い。ここに来る美しい女性達を見るのが大好きだからだ。
ひとくちに美しいと言っても容姿のことだけでなく、八重は彼女たちに内なる美を見出していた。命をかけて人を愛し、その証に子を身篭ろうとする彼女たちを、八重は心の底から尊敬している。
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