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「私もいつか、身を焦がすほどの恋をするのかしら?」
八重は恋に憧れると同時に、ある種の恐怖を抱いている。両親のように身分差などなければ幸せとは限らないことも、八重はよく知っている。
お互いに妻や旦那がいるというのに、この宿でひっそりと会っている者たちもいるのだ。そのような者たちは、八重でも尊敬はできない。
ある昼時、八重が庭を掃いていると、ひとりの男が訪ねてきた。
「お嬢さん、部屋は空いていますか?」
顔をあげれば高そうな黒の背広をピシッと着こなし、こちらも黒の中折帽を被った青年が立っている。
「え、えぇ……、空いてはいますが、お連れ様は……」
「連れはいません。私ひとりです。やはり逢瀬の宿となると、ひとり客は泊められないでしょうか?」
青年は眉尻を下げて八重を見つめる。
「いえ、そんなことないです。ただ、夜になりますときっと、その……にぎやか、だと、思いますけど……」
八重が言葉を選びながら説明すると、青年はきょとんとした後に盛大に笑った。
「はははっ、逢瀬の宿と知って泊まるのですから、気にしませんよ」
「そうですか。では、ご案内します」
八重は顔を赤くしながら、青年を受付に案内した。青年が支払いをすませると、八重は父に言われて青年を一番の部屋に通した。
部屋に入ると、青年は物珍しげに室内を見回す。
「ほう、なかなか趣のある部屋だな」
「ありがとうございます。どうぞごゆっくりお過ごしください」
八重が一礼して部屋を出ようとすると、青年は慌てて八重を呼び止めた。
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