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オレでもガスくらいは知っている。湯を沸かすのに使うアレだ。
“よし、全部閉まってるわね。古い家だから、ちゃんと確かめないと危ないのよ”
婆さんは、毎夜ガス栓の確認をしてから寝ていた。
漏れると危ない――どう危ないかも、これだけ生きていれば見たことがある。噴き上がる炎は、オレのような存在をも、下手したら消し飛ばしてしまう。
この男は家を燃やす気だ。
「ギュアッ!」
オレの姿無き声に、息子は肩を竦め、振り向いて闇に目を凝らす。
そんな濁った眼で、オレを捉えられると思うなよ。
家に火を点けて、婆さんを焼き殺すつもりか?
理由は何であれ、それを許すわけがなかろう。
今度はひと掻きでは済まさん。痣をしこたまこしらえて、骨の一本でも折るといい。
後ろ脚を目一杯屈めて、男の膝に狙いをつけた。
さあ、覚悟しろ。
最悪だったのは、泥棒もどきの息子でも、そいつが逃げなかったことでもない。
この日、この時刻。
よりによって、この瞬間を選ぶことはなかろうに。
ゴーン。
遠くから、鐘の音が鳴り響く。
駄目だ。
ここで鐘は、駄目だ。
全身の肉が強張り、力がスルスルと抜けていくのを感じた。
ゴーン。
程なくして、二回目の鐘が追い撃ちを掛ける。
年越しの百八回。ソウセイジの鐘だ。
誰でも、いや、どんな物の怪でも鐘が効くわけではない。
重ねた業が深いほど、鐘が払うべき邪気も増える。邪気が多ければ、この瞬間でも余力を持ち得ただろう。
しかしオレは、人を殺めなくなって久しい。
「ギギギギ……」
数回の鐘で縛られる不甲斐無い自分に、噛み合わせた歯が軋む。人の世に合わせた結果がこの醜態とは、なんたる皮肉か。
妙な悪寒に震えながらも、男はまた背を向け、台所へと歩み出した。
ゴーン。
この鐘は、まだまだ続く。
鳴り終わるのを待っていたのでは、全ての事は済んでしまう。
誰か。
誰か、鐘を止めろ。
何度も心で訴えた。
命令はすぐに懇願へと変わり、声にならない叫びを繰り返す。
お願いだから、止めてくれっ。
わずかな幸運を願いつつ、藻掻きもした。奥に消えた男を追って、四つ脚を無様に引きずる。
廊下の中程まで辿り着いた時、空気の抜けるような音が、耳に届いた。
ガスだ。
男の影法師も、再びこちらへ向かって来た。
よしっ、と密かにフサフサした口角を上げる。
もっと近寄れ。前脚が届けば、薙ぎ倒せよう。
然しながら、男は途中で脇の部屋に入った。
先までオレが寝ていた居間から、ビチャビチャと水が撥ねる様子が伝わってくる。何をしているのかは、臭いが教えてくれた。
油を撒いていやがるんだ。
缶を片手に出て来た男は、廊下も油塗れにしながら玄関へと進む。
オレの鼻先を通り過ぎようとする足へ、弱々しくも怒りの篭った一撃を振りかぶった。
「うわっ!」
前脚は、馬鹿息子の踵を打つ。
姿勢を崩した男は、たたらを踏んで最後には尻餅をついた。
ゴーン。
また力が失われ、オレはその場でへたり込む。
男の手を、そこに握られた物を忌ま忌ましく睨んだ。
それも知っているぞ、“らいたあ”だろう。
やめてくれ。
この男を止めなくては。
頼む。
早く鐘の音を消してくれ!
立ち上がった息子は、眉をひそめて周囲を見回す。訝しい顔のまま、もう遠慮せず玄関へ小走りで急ぎ始めた。
オレの横を通る二度目の機会は、空振りで終わってしまう。
なんたるザマだ。
宙を切った脚を床に叩きつけ、せめてもと咆哮した。毛を逆立て、グルグルッと喉を盛大に鳴らす。
そいつを使うんじゃない。
やめろ!
残る油を玄関に撒き尽くすと、男は開けた扉を左手で支え、右手を前に掲げた。
鐘が、焦りが、間に合わないという恐怖が、オレの体中をゾワゾワと駆け巡る。
そして、無音。
ゴンッと、一際大きな響きを最後にして、鐘の音が止む。
オレの声に応えて、冬の静寂が取り戻された。
解き放たれたバネの如く、オレは廊下を駆ける。
野良猫に、こんな真似が出来るものか。
全力を注いだオレは、風よりも速い。
男の手前で床を蹴り、その腹へと体をぶつけると、衝撃で男は二つ折りになって吹っ飛んだ。
手放された缶がけたたましく転がり、オレたちは戸外へ弾き出される。
枷が消えれば、こんな男は害虫にも及ばない。御影石が敷かれた門扉までの道を、男を弾いて追い立てた。
右に転がし、左に撥ね飛ばし、ヨロヨロと立ち上がる度に容赦無く獲物を狩る。
雪で濡れた地面に叩きつけられて、男の服は泥だらけだ。
「な、なんなんだ!? 誰だっ!」
門柱に縋って立った男は、しかし、それでもまだライターを握り締めていた。
天晴れ、などと賞賛してやってたまるか。
とっとと火種を手放せ。
目標を男の右手に定め、今一度、跳び掛からんと身を屈める。
その刹那、見誤ることなきその拳が闇に失せた。
いや、在るには在る。
肘の先で断ち切られ、用を為さなくなった下腕は、皮一枚でぶらりと垂れ下がっていた。
「ああ……あぁっ……!」
男が唸り、美しいピンク色の切断面に呆然と目を遣る。
痛みも、血の一滴も生じない怪の業。
切られた息子が状況を把握するのに、一拍は要したようだ。
どうにか千切れかかった腕を腹の前に抱え、必死の形相で外へと走り出す。
替わって二つの影が、オレの元へ滑り込んで来た。
久方ぶりのその顔に、礼を告げる。
「助かったよ、兄さん」
「間に合ったみたいだな」
長兄は、あらゆるものを切り刻む。
おそらく未だに、どこかで誰かを斬り続けているのだろう。
ずっと三人組だった。
ところがそんな生き方に飽き、離れようとしたオレを、兄は好きにさせてくれた。
別れて生きようが、家族は家族。呼び声を聞き付け、寺の鐘を切り落としたのは兄だ。
その兄の横から、三人で一番小さなオレの弟が顔を突き出した。
「また偶には交代してくれよ。婆さんの煮干しは、美味いんだ」
「お前のせいか」
弟は、切った傷をたちどころに塞ぐ。
兄と一緒に行動しているようだが、ひょこっとオレに会いに来ることもあった。二度ほど入れ替わった時に夕食に与り、味を占めたらしい。
尤も、オレとは違い、静かに暮らす気は無さそうだ。
オレの無事を確認した二人は、くるりと背を向けて、夜闇に紛れて去っていった。
もう年も新たになったことだろう。
油で汚された家にうんざりしつつ、ガスを止めるべく、オレは婆さんを起こしに向かった。
すっかり冷え込んだ家で、オレと婆さんは正月を迎える。
ガスを抜くため、真夜中から窓を開け放ったせいだ。
廊下の油も、婆さんだけでは拭き取りづらく、オレも雑巾を咥えて手伝う羽目になる。
油が染み込んだ膝掛けや座布団は、捨てるしかない。
「アンタがやったのかい? ずいぶん暴れたねえ」なんて言いやがるから、溜め息が出るぜ。
あの物音で起きてこない婆さんの図太さに、感謝すべきなのか、呆れるべきか。
年明けから暫くは、再度あの息子が来ないか、警戒する日々が続いた。
電話があったのは、一週間後くらいだ。大怪我をしたので、当分は会いに行けないと言われたらしい。
“ショウノスケ”がいなくなって、急に息子が現れたそうだが、どうにも胡散臭い男だ。
残念そうな婆さんには悪いが、二度と顔を出すなと思う。
片腕がどうなったのであれ、ほとぼりが冷めれば、あの手の男は懲りずに画策してくるものだ。
婆さんを一人にするのは危ない。
こりゃあ、永い付き合いになりそうだな。
座椅子に座る婆さんの膝へ、オレはピョンと跳び乗った。
「アンタがいれば、寂しくはないか」
「ニギャ」
「よく出来た猫だよ」
「…………」
猫じゃねえ、鼬だ。
まあ、目も見えない婆さんじゃ、訂正するのも難しい。
「今日は煮干しがないの。ソーセージでも、いいわよね?」
「ギュッ!」
これだ。そうこなくっちゃ。
食い物分は働いてやる。
長生きしろよ、婆さん。
(了)
※ 鎌鼬
突然、体の一部が、鎌で切られたように裂ける怪異現象。
古くは妖怪の仕業ともされ、その姿形は伝承によって様々である。
三匹組のイタチに似た妖怪だと伝える地方もあり、一匹目が人を転ばせ、二匹目が切り、三匹目が薬を塗るのだという。
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