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冬にしては、日差しの温い昼下がりだった。
ガラス窓から見える庭は、花どころか枝木も無い寒々しさだが、和室の中は暖かい。
炬燵の傍らに、年季の入った座椅子が一つ。
部屋に居るのは一人、そしてオレだ。
人間の名前はセツ、だったか。
覚えたところで、喋れるわけでなく、どうでもいい。
オレの名は――無い。婆さんは「アンタ」と呼ぶ。それで充分だろう。
この家の主が、膝の上に乗るオレを撫でた。
皺が折り重なる手で、ゆっくりと、毛並みを整えるように。
「アンタは本当に温かいわねえ」
「ニギャァ」
「鳴き声は、猫らしくないけど。尻尾も長いしね」
老いた婦人は、クスリと笑う。
そこらの駄目猫と一緒にすんじゃねえ、そう言ってやりたくても、出るのは可愛いげに欠けた奇声だけ。
仕方ないさ。そういうもんだ。
「晩御飯は、煮干しにしましょう。好物でしょ?」
「ギュゥ……」
「喜んじゃって。ふふ」
身をよじって抗議したのは、逆効果だったらしい。
魚は嫌いなんだよ。元々、多少食事を抜いたって平気なものの、どうせなら好物が食べたい。
アレは何て言ったかな。赤くて、歯応えのある……ソウセイジ、だ。
セツ婆さんと知り合ったのも、ソウセイジがきっかけだった。
この家から歩いてすぐの古い寺で、裏に墓石も並んでいる。なんで寺の名前が、あの美味と同じなのかは分からん。
この辺りを縄張りにするオレには、厄介な寺なんだ。どうにかならないもんかなって、様子を窺いに行ってたわけさ。
まだ寺のイチョウは、黄色くもなっていなかった秋のこと。
婆さんは、誰かの墓参りに来てたらしい。真夜中にも拘わらず、ね。
まあ、たまにそういう人間もいる。
深夜に亡くなった相手を思い出してとか、他人に見られたくないだとか。婆さんの事情は知らないが、参った先は“ショウノスケさん”だそうだ。
婆さんにしたら、車がまかり通る昼間の方が危ないんだろう。オレも嫌いだし、気持ちは理解できる。
ともかくも、杖を頼りに墓地を歩く姿は、危なっかしいことこの上なかった。
助けてやったのは、オレの単なる気まぐれ。墓石まで先導してやると、えらく感謝された。
人間の文字を読むのは苦手だけど、匂いで目的の墓に見当は付く。頻繁にお参りしてるようで、婆さんの気配が墓石にもコッテリ残っていた。
お礼をさせてくれって、言うからさ。家までついて行ったわけよ。
そこで食い物を貰い、その夜は別れた。しかし、ソウセイジの味は忘れ難く、結局、毎日通ってしまう。
野良で暮らしていると、夏はともかく、冬がつらい。
寒くて気が立つと、そこらの物や人にも当たりたくなる。昔は、そうやって暴れたりもしたもんだ。
でも、今の時代、物の怪なんて流行りやしねえ。
いや、これは時代のせいじゃないか。オレも歳を食っちまったってことなんだろう。
人の理から外れて、猛烈に永い年月をね。
そんなわけで、この冬は婆さんの家に居候させてもらっている。
快適だよ。炬燵は初めての経験だったが、こいつはヤバい。
ソウセイジと炬燵のためなら、駄目猫の真似だってしてやるさ。春までの辛抱だ。
動きの怪しい婆さんのために、膝掛けを運んでやったり。
来客があれば、いち早く知らせに行ったり。
大きな家で婆さんと暮らすのは、案外に楽しい。
曰く付きの人形とか飾ってあってさ、落ち着くんだよ。人嫌いのオレには、うら寂しい雰囲気がお似合いだ。
ここ数か月を思い返していると、膝から退けと婆さんの手がオレを押す。
物思いに耽る昼は、そろそろ終わり。夕闇が訪れ、雪もちらつき始めた。
覚束ない手つきで、婆さんはカーテンを閉めていく。
その後は待望の食事――とはいかない。
煮干しだもんな。
残すと婆さんがやけに心配するので、我慢して完食してやる。
「ちょっと疲れたわねえ。今日は早く寝ようかしら」
「ニギュ」
最近はいつもそうだろう、と思う。
うつらうつらとテレビに耳を傾けていた婆さんは、さほど経たないうちに沸いた風呂へと向かった。
部屋に戻ってくると、「おやすみ」とオレに声を掛けて、二階の寝床に引っ込む。
さすがに、一緒に寝るような馴れ合いはしねえ。夜はオレの時間、好きにさせてもらう。
……まあ、冷えたコタツの中で寝るんだけど。もっと寒いんだよ、外は。
しんしんと音を吸う粉雪。
炬燵布団に身を寄せても、いつしか冷気が這い寄ってくる。
静かに丸まって、数刻は経った頃だった。
ガチャリ。
そしてキーッと金属が擦れる音がした。
オレの自慢の髭が、ピクリと揺れる。
誰かが、門扉の留め金を外したようだ。
日中は配達やらで来客の多いこの家も、夜に訪れる人間は稀だ。まして、足音を忍ばせてくるなら、ロクな奴ではないだろう。
泥棒か――オレが居たのが、運の尽きだったな。
適当に脅かして追い払おう。
布団から出たオレは、それこそ本当に気配を消し、玄関へと向かう。
下駄箱の陰に隠れて待つこと少々、案の定、扉の向こうに人が立った。息を潜めた二人組だ。
婆さんなら起きていても気づくか怪しいが、オレの耳や鼻は誤魔化せない。
このまま入って来たところで驚かすか、扉をすり抜けて打って出るか。
思案しているオレの前で、鍵がカチャリと回り、静かにドアが開く。
「ホントにやるの?」
「今さらかよ。さっさと片付けて、帰るぞ」
「でも、万一死にでもしたら――」
男は人差し指を口に当て、黙れと仕草で示した。
「死んだらラッキーじゃねえか、一石二鳥だ。土地だけでも大金になる」
二人はしばらく耳を澄ませたあと、身を屈めて中へと進む。
小汚い土足のままで、だ。
女の顔は初めて見る。だが、男は何度か家に来たことがあった。
脂ぎった下品な中年――セツ婆さんの息子らしい。
臭いんだ、こいつは。悪意が毛穴から立ち上り、酷い臭いを撒き散らしてやがる。
今すぐにでも始末してやりたいと、身の内に抱えた衝動が首をもたげた。
オレを押し止めたのは、婆さんの笑顔だ。こんな馬鹿息子でも、会う度にそりゃあ喜んでいたからな。
暗い家の中では、オレが本気を出せば人間からは察知できなくなる。
影に同化すれば、残るのは薄赤く光る目くらいのものだ。
二人が横を通り過ぎた瞬間、オレは女の足首を手で払った。さっとひと掻き、それだけで女はもんどり打って廊下に転がる。
「いぃっ!」
「バカ、何してんだよっ」
ドスンと鈍い音が響いたが、二階の婆さんが起きた様子は無い。その方が、オレにとっても好都合だ。
息子は女を引き起こそうと、彼女の腕を乱暴に掴む。
そこへ、もうひと掻き。
女に重なるように息子も崩れ、二人は揃って苦痛の呻きを上げた。
これで逃げ出すだろうという俺の予想は、半分だけ的中する。
物音を立ててしまったことに慌てて、男の下から這いずり出した女は、一目散に外へ走った。
「おいっ、待てよ!」
息子にしてみれば、たとえセツに見つかっても、大事にはならないと考えているのだろう。
少しは上階を気にする素振りをしながらも、さして動じた風には見えない。
パンパンと服の埃を手で飛ばすと、また家の中へと向き直る。
「クソッ、ガスの元栓はどこだ……」
がすと言ったのか、こいつは。
不穏な男の台詞に、背中の毛が波打った。
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